■平田篤胤「仙境異聞」(1)

こちらからお借りしました(私の訳ではありません)
料43 平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻                                   

文政3年(1820)、江戸に不思議な少年が現れた。彼はその
とき15歳。卜筮(ぼくぜい)に興味のあったその少年は、7歳
のときから山人(やまびと)に連れられて空中を飛行して、江
戸と常陸国の岩間山との間をたびたび往復し、山人に付いて
修行している、というのである。
山人とは、俗にいう天狗のことである。
国学者・平田篤胤は、江戸に戻って来ていた寅吉というその
少年を訪ねて話を聞き、やがて己のもとに招いて異界の様子
を聞き出し、記録した。『仙境異聞』は、その記録である。

 「篤胤歌碑」については、資料46の
岩間 ・愛宕山の 『「篤胤歌碑」について を
ご覧ください。


 
仙境異聞(上)一之巻       平 田 篤 胤  筆 記

文政三年十月朔日夕七時なりけるが、屋代輪池翁の来まして、「山崎美(やざきよししげ)が許(もと)に、いはゆる天狗に誘はれて年久しく、其の使者と成りたりし童子の来たり居て、彼(か)の境にて見聞きたる事どもを語れる由を聞くに、子のかねて考へ記せる説等(ことども)と、よく符合する事多かり。吾いま美成がり往(ゆ)きて、其の童子を見むとするなり。いかで同伴し給はぬか」と言はるゝに、余はも常にさる者にただに相ひ見て、糺(ただ)さばやと思ふ事ども種々きゝ持ちたれば、甚(いと)嬉しくて、折ふし伴信友(ばんのぶとも)が来合ひたれど、「今帰り来む」と云ひて、美成が許へと伴はれ出づ。(美成は長崎屋新兵衛といふ薬商人にて、往(いに)し年頃は、予に従ひて有りしが、更に高田与清(ともきよ)に従ひ、今は屋代翁の門に入りて、博く読書を好むをのこなり。家は下谷長者町といふ坊にて、余が今の湯嶋天神の男坂下と云ふ所よりは、七八町ばかりも有るべし。屋代翁の家と、美成が家とは、四五町ばかりも隔たれり。)さて途中にて屋代翁に言ひけらくは、「神誘ひに成りたる者は、其の言おぼろおぼろとして慥(たし)かならず。殊に彼の境の事をば、秘(かく)しつゝみて顕(あらわ)に云はざる物なるが、其の童子はいかに侍る」と云へば、翁云はく、「大抵世に聞こゆる神誘ひの者は然(さ)有れど、彼の童子は蘊(つつ)まず談(かた)る由にて、既に蜷川(にながわ)家へ行きたる時に、遠き西の極(はて)なる国々にも至りて、迦陵頻伽(かりょうびんが)をさへに見たりとて、其の声をも真似び聞かせたるよし、美成が物語なり。近ごろ或処にて、誘はれたりし者も秘(かく)すことなく談れりと聞けば、昔は彼の境の事の世に漏るゝを忌みたるが、近頃は彼の境の事を然(さ)しも蘊(つつ)まず成りぬと覚ゆ。よく問(たず)ねて忘れず筆記せられよ」と返(かえ)す返す言はるゝに、余諾(うべな)ひてまた心に思へるは、「現世の趣も昔は甚(いた)く秘したる書も事も、今は世に顕はれたるが多く、知り難かりし神世の道の隈々も、いや次々に明らかになり、外国々(とつくにぐに)の事物、くさぐさの器どもゝ、年を追ひて世に知らるゝ事と成りぬるを思ふに、此は皆神の御心にて、彼の境の事までも聞き知らるべき、所謂機運のめぐり来つるにや」など思ひ続けつゝ、間もなく美成が許になむ至りぬる。
時宜
(よ)くあるじ居相ひて、彼の童子を呼び出だし、翁と余とに相ひ見せしむ。然るに彼の童子はも、二人の面をつくづく打守りて、辞儀せむとも為(せ)ざりしを、美成かたはらに居て、「辞儀せよ」と云へば、甚(いと)ふつゝかに辞儀を為(し)たり。憎気なき尋常の童子なるが、歳は十五歳なりと云へども、十三歳ばかりに見え、眼は人相家に下三白と称(い)ふ眼にて、凡より大きく、謂(いわ)ゆる眼光人を射るといふ如く、光ありて面貌すべて異相なり。脈を診(み)、腹をも診たるに、小腹実して力あり。脈は三関のうち寸口の脈いと細く、六七歳の童子の脈に似たり。江戸下谷七軒町なる、越中屋与惣次郎といひし者の二男にて、名を寅吉といふ。然るは文化三寅年十二月晦日の朝七時に生れたるが、その年も日も刻も寅なりし故に、かく名づけしとぞ。父は今より三年さきに世を退(さ)れり。其の後は寅吉が兄荘吉、ことし十八歳なるが、少しの商ひを為て、母と幼き弟妹などを養ひ、細き烟を立つるといふ。(寅吉が親兄などの事は、後に余親(みずか)ら其の家に尋ねて記せり。また母が言を聞くに、寅吉五六歳のほどより、時々未然に言を発すること有りき。そは文化□年□月、下谷広小路に火事ありける前日に、家棟に上り居て、広小路に火事ありといふ。人々見るに何の事もなき故に、などて然は云ふぞと問ひしかば、あればかり火の燃ゆるを、人々には見えざるか、疾(と)く逃げよかしなど云へるを、人々物に狂ふ如く思へりしが、果して翌日の夜に広小路焼亡あり。また或とき父に向かひて、明日は怪我すること有るべし、用心せよと云へりしを、父は用ひざりしに、果して大に怪我したる事あり。また或時今夜かならず盗人入るべしと云へりしかば、父叱りて然ることは云ふべき物に非(あら)ずと制しけるに、果して盗人入りたること有り。またいまだ立つことも叶はずて這ひまはりしほどのことを覚え居て、語り出づることも時々ありき。然るに生れつき疳症にて、幼少の時は色青ざめ常に腹下り夜つばりなどして、遂に成長すまじく思へりしが、「車に引かれてけがせるが、けんくわせずてよかりしといへること母咄し」今年旅より帰り来ては、いと丈夫になり侍りと語りき。未然の事を知りたるが奇(あや)しくて、後に寅吉にいかにして知りたりしと探(たず)ぬれば、広小路の焼けたりし時は、其の前日に家棟より見けるに、翌日焼亡したるほどの所に、炎起りて見えける故、然云ひしなり。父が怪我あるべき事、盗人の入るを知りたるなど、何やらむ耳の辺にて、ざわざわと云ふ様に思ふと、其の中に何処(いずこ)よりともなく、明日は親父怪我すべし、今夜は盗人入るべしと云ふ声きこゆると、直ちに我知らず其の言の如く口に云ひ出でたりと云へりき。)さて寅吉、余が面を熟々(つくづく)見て打笑みつゝ有りけるが、思ひ放てる状(さま)にて、「あなたは神様なり」と再三いふにぞ、予その言ひ状(さま)の奇(あや)しきに答へもせずて在りしかば、「あなたは神の道を信じ学び給ふならむ」といふに、美成傍らより、「此は平田先生とて古学の神道を教授し給ふ御方なり」と云へば、寅吉笑ひて「実に然(さ)るべく思へり」といふ。爰(ここ)に予まづ驚きて、「其はいかにして知れるぞ。神の道を学ぶは善き事か悪しき事か」と問へば、「何となく神を信じ給ふ御方ならむと心に浮びたりしゆゑに、然は申し侍り。神の道ほど尊き道は無ければ、此を信じ給ふは甚(いと)(よ)き事なり」と答ふ。爰(ここ)に屋代翁「我をばいかに見つる」と問はるれば、寅吉しばし考へて、「あなたも神を信じ給ふが、なほ種々ひろき学問を為給ふらむ」と云ひき。「神といはれ仏てふ名も願はずてただよき人になる由もがな 屋代翁」(こ)れなむ己れが此の童子に驚かされたる始めなりける。



(さて)まづ神誘ひに逢ひたる始めを尋ぬるに、「文化九年の七歳に成りけるとき、池端茅町なる境稲荷(いなり)社の前に、貞意といふ売卜者ありしが、其の家の前に出でて日々売卜するを立寄りて見聞くに、乾の卦出でたり坤の卦出でたりなどいふを、此は卜筮といふ物は、くさぐさ獣の毛を集め置きて擬(うらな)ふ法ありて、其の毛を探り出だし、熊の毛を探り得れば、いかにとか、鹿の毛を探り出づればいかにとか、其の探り出でたる毛により判断する事なるべく思ひて、頻(しき)りに習はまほしく覚えしかば、或日卜者の傍らに人なき時を窺ひ、『いかで我に卜筮のわざを教へて給はれ』と請ひしかば、卜者我を幼き者と思ひて、戯言(ざれごと)したるか、『此は容易に教へがたき態(わざ)なれば、七日がほど掌中に油をたゝへ、火を灯す行を勤めて後に来たるべし。教へむ』と云ふ故に、実(げ)にも容易には伝ふまじく思ひて家に帰り、父母も誰も見ざる間を忍びて、二階に上りなどして密(ひそ)かに手灯(てあか)りの行を始めけるに、熱さ堪へがたかりしかど、強ひて勤め七日にみちて、卜者の許(もと)に到り、『手の此(か)く焼け爛(ただ)るゝばかり、七日が間手灯りの行を勤めたれば、教へて給はれ』と云ふに、卜者ただ笑ひのみして教へざりし故に、いと口惜しくは思ひしかど、詮方なく、倍々(ますます)此のわざの知りたくて、日を送りけるに、(この貞意といへる卜者は後に上方すぢへ行きたりといふ)其の年の四月ころ、東叡山の山下に遊びて、黒門前なる五条天神のあたりを見て在りけるに、歳のころ五十ばかりと見ゆる、髭長く総髪をくるくると櫛まきの如く結びたる老翁の旅装束したるが、口のわたり四寸ばかりも有らむと思ふ小壺より、丸薬をとり出だして売りけるが、(平児代答に五六寸と有れど四寸ばかりなりと寅吉後に云へり)取並べたる物ども、小つづら敷物まで、悉くかの小壺に納(い)るゝに、何の事もなく納まりたり。斯(か)くてみづからも其の中に入らむとす。何として此の中に入らるべきと見居たるに、片足を蹈み入れたりと見ゆるに皆入りて、其の壺大空に飛揚りて、何処(いずこ)に行きしとも知れず。寅吉いと(あや)しく思ひしかば、其の後また彼処(かしこ)に行きて、夕暮まで見居たるに、前にかはる事なし。其の後にも亦行きて見るに、彼の翁言をかけて、『其方(そち)もこの壺に入れ。面白き事ども見せむ』と云ふにぞ、いと気味わるく思ひて辞(ことわ)りければ、彼の翁かたはらの者の売る作菓子(つくりがし)など買ひ与へて、『汝は卜筮の事を知りたく思ふを、それ知りたくば此の壺に入りて吾と共に行くべし。教へむ』と勧むるに、寅吉常に卜筮を知りたき念あれば行きて見ばやと思ふ心出で来て、其の中に入りたる様に思ふと、日もいまだ暮れざるに、とある山の頂に至りぬ。其の山は常陸国なる南台丈(嶽)(なんたいだけ)と云ふ山なり。(此の山は、加波山と、吾国山との間にありて、獅子鼻岩といふ、岩のさし出でたる山にて、いはゆる天狗の行場なりとぞ。)然るに幼かりし時のことなれば、夜に入りては、頻りに両親を恋しくなりて泣きしかば、老翁くさぐさ慰めしかど、なほ声を揚げて泣きたる故に、慰めかねて、『然らば家に送り帰すべし。かならず此の始末を人に語る事なく、日々に五条天神の前に来たるべし。我送り迎ひして、卜筮を習はしめむ』と言ひ含め、背負ひて眼を閉ぢさせ、大空に昇りたるが、耳に風あたりて、ざわざわと鳴る様に思ふと、はや我が家の前に至りぬ。こゝにても、『返す返す此の事人にな語りそ。語らば身のため悪しかりなむ』と誨(おし)へて、老翁は見えずなりぬ。斯くて我はその誡めを堅く守りて、後まで父母にも此の事を言はず。さて約束の如く、次の日昼過ぐるころ、五条天神の前に行けば、彼の老翁来たり居(お)り、我を背おひて山に至れるが、何事も教へず、彼此(あちらこちら)の山々にも連れ行きて、種々の事を見覚えしめ、花を折り鳥をとり、山川の魚など取りて、我を慰め暮相(くれあい)になりては、例の如く背負ひ帰せり。我その山遊びの面白さに、日々に約束の所に行きて、老翁に伴はるゝ事、日久しかりしかど、家をばいつも下谷広小路なる井口といふ薬店の男子と伴ひて遊びに出づる風にて出でたりき。
又或時の事なるが、七軒町の辺を謂
(いわ)ゆる、わいわい天王とて、鼻高く赤き面をかぶり袴を着し太刀をさし、赤き紙に天王と云ふ二字を搨(す)りたる小札をまき散らして子共を集め、『天王様は囃(はや)すがおすき。囃せや子ども、わいわいと囃せ。天王様は喧嘩がきらひ。喧嘩をするな間(なか)よく遊べ』と囃しつゝ行くを我も面白く、大勢の中に交りて共に囃して遠く家を離るゝ事も知らず、今思へば本郷のさきなる妙義坂といふ辺まで至りけるに、日は既に暮れたれば、子共はみな帰りたるに、札を蒔きし人、路の傍らによりて面を取りたるを見れば、いつも我を伴ふ翁にぞ有りける。爰(ここ)に我を送り帰さむとて、家路をさして連れ来たりけるが、茅町なる榊原殿の表門の前にて、我が父の我を尋ねむと出でたることを知りて、『我が父尋ね来たれり。此の事かならず言ふこと勿(なか)れ』とて、父に行逢ひ『此の子を尋ぬるに非ずや。遠く迷ひて居たる故に連れ来たれり』とて渡せば、父なる者大きに悦びて、名と処とを問ふに、何処の誰とあらぬ名を云ひて別れ去りぬ。翌日その処に父の尋ねたるに、元より虚言なりしかば、其処に然る人はなしとて空しく帰れり。(篤胤云はく、凡て諸社の札配り、わいわい天王など云ふ物に、山々の異人も稀に出づること、下に委(くわ)しく記せるを見るべし。さて此の事を母に問へば、昼飯前より五時まで帰らず、連れたる人は、神田紺屋町の彦三郎といふと答へし故に、翌日与惣次郎、酒を持ちて紺屋町を尋ねしに、然る人なかりし故に、ほいなく思ひて、同町の酒屋に知りたる者ありし故に、頼みて悉く尋ねたるに、無かりしと云へり。)
    


さて大抵日々の如く、伴はれ行きたる山は、始めは、南台丈(嶽)なりけるに、いつしか同国なる岩間山に連れ行きて、今の師に付属したるに、まづ百日断食の行を行はしめて、後に師弟の誓状を書かしめたり。「老人の行方、師の名ども、弟(子)のこと」爰に我『かねての念願なれば、卜筮を教へ給はれ』と云へば、師の『そは甚(いと)易き事なれど、易卜は宜(よ)からぬ訣(わけ)あれば、まづ余事を学べ』とて、諸武術の方、書法などを教へ、神道にあづかる事ども、祈禱呪禁の為(し)かた、符字の記し方、幣(ぬさ)の切りかた、医薬の製法、武器の製作、また易卜ならぬ、種々の卜法、また仏道諸宗の秘事経文、その外種々の事を教へらる。其はいつも、彼の老翁の送り迎ひたれど、両親はじめ人にはかつて語らず、教へを受けたる事どもゝ、明かさざれば知る人なく、殊に吾が家は貧しければ、世話なく遊びに出づるを善しとして尋ねず、また十日、廿日、五十日、百日余りなど、山に居て家に送り帰されたる事も、折々有りしかど、いかなる事にか、家の者ども、両親はじめ、我が然(さ)ばかり久しく、家に居らずとは思はで有りしなり。斯く山に往来(ゆきき)しつる事、七歳の夏より十一歳の十月まで、都(すべ)て五年の間なるが、此の間に師の供をなし、また師に従ふ余人にも伴はれて、国々所々をも見回りたり。(此のほどの事を母に問へば、筆、こま、たこなど、持遊びを持来たれりと云へり。)
    


さて十二、十三の歳には往来せず、唯をりをり師の来たりて事を誨(おし)へらるゝのみなりき。然るに父は我が十一歳になる八月より煩(わずら)ひ付きたり。其の病中に師の我に誨へて、「○めしくはぬ病気○先和尚びくににたゝられ、気ちがい和尚の気に入ること、とらならではめしもくはず○ゆうれいをうつ○禅僧問答に来たる○かこひものゝこと、後見、ふぢ寺、根ぎしえん光寺」『禅宗、日蓮宗などの宗体をも見覚えよ』と有りし故に、父母に『我は病身にて商ひ覚束なければ、寺に奉公して後に出家せむと思ふ』と云ひしかば、父母ともに仏を信ずる故に諾(うべな)ひて、此の年の秋より池端なる正慶寺といふ禅宗の寺に預けぬ。此の寺にて彼の宗旨の経文など習ひ宗体をもほぼ見聞きて、極月家に帰れるが、文化十五年の正月より、亦同所の覚性寺と云ふ富士派の日蓮宗の寺へ行きたるが、この二月に父みまかりたり。此の寺に居たる時に或人の来て、『大切なる物を失ひたり』と人に語るを、傍らに聞き居たるに、誰ともなく耳元にて『其は人の盗みて広徳寺前なる石の井戸の傍らに隠し置きたり』と云ふ声聞こえし故に、其の如く言ひしかば其の人驚きて帰りけるが、『果して其処に有りしが不思議なり』とて人々に云ひし故に、彼此(あれこれ)と人に頼まれて卜(うらな)ひ、また咒禁加持なども為たるに、悉く験(しるし)ありし中に富の題付とかいふ物の番を、数度云ひ当てたり。其は来たりて問ふ人々題付と云ふことは言はず、『千番ある物の中、一番を神社に納めむと思ふ。幾番が宜からむと云ふこと、卜ひ給はれ』と云ふ故に卜ひて、『幾番が宜し』と云ひしかば、前後すべて二十二三人に頼まれたるに、十六七人は取れりと云ふ。六七度は当らざれど、其の内五度などは、我がさし教へたる番札は早く人の手に入れる故に外れたりとぞ。斯く在りしかば諸人種々の事を頼み来たりて煩(うるさ)かりし故に、隠れて人に相(あ)はざる様にせしかど、なほ大勢来たりしかば、住持驚き、『此の状(さま)にて世に弘まらむには、寅吉は弱年なれば、我が怪しき術を教へて物する如く人の思はむこと、心遣ひなり』とて家に帰しぬ。此の後一月ばかりは家に居たるが、おとゝし四月よりまた師の教へにて日蓮宗なる宗源寺といふ身延派の寺へ弟子入りして、此の寺にて剃髪したり。然るは彼の宗に剃髪して真の弟子とならざれば、見聞しがたき秘事どもの多かればなり。
然るに文政二年五月二十五日に師の来たりて、『伴はむ』と云はるゝ故に、母には人に誘はれて伊勢参宮する由を云ひて、師と共にまづ岩間山に至り、夫より東海道を行きて江
嶋、鎌倉の辺を見て、伊勢両宮を拝み、西の国々なる山々を見廻り、八月二十五日にひとまづ家に帰り、九月になりて、また師の来たりて『伴はむ』と云はるゝ故に、此の時も母に神社周(めぐ)りに出づる由を云ひて、師と共に遠き諸越(もろこし)の国々までも翔(かけ)り行き、御国の地に帰りて、東北の国々なる山々を見廻りたるが、如何なる事にか十一月の始めに妙義山の山奥なる、小西山中と云ふ処の、家いさゝか有りて、人跡絶えたりとも云ふべき処に捨て置きて、師は何地ともなく行かれし故に、其の処の名主とも云ふべき家を頼みて、二三日待ち居たれど、師は来られず。然るに其の家に何処の人なるか、名も知らねど五十歳ばかりと見ゆる老僧の来たれるに、吾は江戸の者なるが、神道を学ばむとて国々を周り道に蹈み迷ひて、此の処に来たれる由を語りしかば、老僧きゝて『其は殊勝なる心なり。然も有らば我が知れる人に神道に委(くわ)しき人あり。其の許に伴はむ』とて、筑波山の社家なる白石丈之進と云ふ人の許に伴ひて、『此の童子は神道熱心の由なれば、止(とど)めて教へ給はれ』と頼み置きて去れり。さて丈之進といふ人の神道は蛭子流といふ流(ながれ)にて、吉田流よりも猶仏法を混じたる神道にて、面白くは無かりしかど、子分にして名を平馬とおほせて懇(ねんご)ろに教ふる故に、此れをも学ばむと思ひて此の家に年を越して其の道を聞きたり。然るに三月の始めに古呂明の来たりて、『師の居る山に伴はむ』と云はるゝに甚(いと)嬉しくて、丈之進に『東国すぢの神社周りに出でたし』と暇(いとま)を請ひければ、通り手形に印形を押したるを授けて、『一人旅は宿かさざる定めなれば、此の手形を見せて宿を請ふべし』など教へて出だしぬ。其の手形の文面は左に挙ぐるが如し。  
差出し申す一通の事
 一 此度私の悴平馬と申す者、慥
(たし)か成る者に御座候間、
    神前に国家安全、万民繁栄の御祈禱を令
(い)ひつけ、近
    国近林巡行に差出し申し候。若し途中にて御神職衆中へ
    御目に掛り候節は、私同様に御取り持ち下され候様に頼
    み上げ奉り候。はたまた此の者何方にて行暮れ候共、御
    心置無く御一宿の程希ひ奉り候、以上。
筑波六所社人
文政三歳三月日          
白石丈之進印

神職衆中
村々御役人衆中
   
    


と記して上包みの紙に、白石丈之進内同平馬とぞ書きたりける。爰に古呂明に伴はれて、岩間山に行き師に見(まみ)えしかば、なほ種々の事ども教へ授けらる。
然るに我は去年の九月より此の三月まで、七月ばかりも母に別れたれば、今頃はいかにして居らむ、兄はいまだ弱年なり、父のなき後にはいかに暮すらむなど思ひ出でて打ちふさげる有り状
(さま)を、師の見尤(みとが)めて、『汝は母の事を思ふ状なるが、無事にて居れば案じ過ごす事勿れ。其の有り状を見よ』と云はれけるが、夢とも現とも山とも家とも弁(わきま)へざるが、母と兄の無事なる有り状の慥々(しかしか)と見えたるが、言(ことば)をかはさむと思ふほどに、師の声の聞こえたり。此れに驚きてふり返り見れば、師の前にぞ有りける。爰に師の言はれけるは、『今より暫く家に帰るべし。さて里に帰りたらむ上にも、人はただ一心こそ大事なれば、構へて邪趣の道に踏入ることなく、神の道の修行に心を凝(こ)らせよ。然れど仏道をはじめ、我が好まざる道にても必々(かならずかならず)人に悪しと争ふ事勿れ。汝が前身は神の道に深き因縁ある者なれば、吾また影身にそひて守護すれば、兼ねて教へたる事どもの、世のため人の為となる事は施し行ふべし。但し其の人を得ざる限りは、謾(みだ)りに山にて見聞きしたる事を明かし云ふ事勿れ。また我が実名をも人に明かさず、世に云ふまゝに天狗と称し、岩間山に住む十三天狗の中にて、名は杉山組正といふ由を云ひ、古呂明の事を云ふときは、姑(しばら)く白石丈之進と称し、汝が名も我が授けたる嘉津間といふ名は名告(なの)らず、白石平馬と称せよ』と誨(おし)へて、平馬の二字を花押に作るすべを教へられ、師みづから古呂明、左司間と共に送られしが、途なる大宝村の八幡宮に参詣せしめ、神前に奉納の刀剣の夥(おびただ)しく有るが中を択びて、一振の脇指をとりて差料(さしりょう)とせしめ、空行して暫時の間に人足しげき大きなる二王門ある堂の前に至りぬ。こゝに古呂明の『此より汝が家にほど近し。一人にて行け』と云はるゝ故に、『此は何処にて侍る』と問へば、『浅草観世音の前なり』と言はるゝに、驚きて見れば実然(まこと)にぞ有りける。空行に伴はれ、ふと此処に置かれし故に、何処と云ふこと思ひ惑へりしなり。此れにて師に暇乞(いとまご)ひして、一人家に帰れり。其は三月二十八日なりけり。さて母と兄とは、また『寺に行きて、出家を遂げよ』と勧めしかど諾(うべな)はず。然(さ)るは我生れつきて、三宝(さんぼう)の道は悪(きら)ひなるを、前に剃髪したるは、師命にて望むことの有りし故なり。然れば今は還俗せむとて、下山したる三月より六月まで家に居たり。然るは我が髪は、去年の夏宗源寺にて剃りたる儘の、いが栗頭にて、結び挙ぐること能はざれば、其を延ばさむとてなり。然るに我が家の宗旨は、一向宗にて、母も兄も明暮(あけくれ)に阿弥陀仏を称へ、神をきらひ卑しめて抹香くさき事どもを、常の所行とするを、吾はそれに替りて、太神宮の御玉串を棚になほし、手を拍ち拝すれば、兄は穢(けが)らはしとて塩をまき散らしなどするを、我もまけず、仏檀こそ汚けれと、唾など吐きし故に、兄弟の間宜しからず、山より持ち来たりつる物ども、天気を見る書、その外雑々(さまざま)の法を記せる書、又薬方の書なども、母と兄とに焼き捨てられ、師の賜へる指料をも、古鉄買に売払はれたり。
然るに六月の末頃は、既に髪も生え延びたりし故に、野郎頭となり、聊
(いささ)か由ありて七月より或人の家を主(ぬし)としけれど、我元より大抵は山に育ちて、現世の人に使(仕)ふる道を知らず、「馬鹿々々と云はれしこと」(しもべ)の態にも習はねば、馬鹿々々と云はれ、役にたゝずとて、八月の始めに返されつ。是よりまた少しの縁(ちなみ)にて、上野町の下田氏に居たりけるに、山崎美成の来たりて、ほぼ我が事をきゝ、珍しがりて『我が許に来たれ』と云はれし故に、母にも云はず、九月七日より彼のぬしの家に往き居て、事の因みに少(いささ)か山の事も、我が身の上をも語りしかば、人にも語られし故に、人々聞き伝へて多く来たられしが、荻野先生、また山崎ぬしなどの如く、仏法を好み信ずる人には、問はるゝまにまに、其の道の事ども、印相の事など答へて、師の誡めの如く、仏法を悪しき道とは言はざる故に、『然ばかり仏法の事を知りたれば、俗になるは惜しき事なり。我等いかにも世話すべし、僧になれ』と屢々勧められしかど、我は師の言の如く、実に宿縁ありし事と見えて、仏法を好まざる故に辞退して在りけれど、吾が誠の心を語る人なく、事を弁へざる徒は、何くれと悪しざまに評し云ふ由なども聞こえ、また我は世間の交らひ世の所業も知らざれば、いかにして宜けむと、吾身ながらに持ちあぐみたる心地して、をりをり火の見に昇り外に出でて、岩間山の空を長目(眺め)て日を送りけるに、其の月の晦日に、美成の店なる者の使ひに行くに伴はれて出でけるが、途にて同友高山左司間に行逢ひたり。然れど人と伴ひたる故に互に物も云はで別れしが、決はめて師の使ひに我が方へ来つるならむと、心に待ちて在りけるに、其の夜果して外にて我を呼ぶ声きこえし故に、それとなく出でて見れば、左司間にて、『師の言ひ遣はされたるは、近き間に汝が便(頼)りとなる人有れば、然(さ)しも物思ひする事勿れ。偖(さて)また極月三日より寒に入る故に、例の如く三十日の行あれば、十一月の末までに登山せよ。然れど師もし讃岐国の山周りに当らるれば、寒行は休みなる故に、また里に帰されむとの事なり』と云ひ置きて帰りぬ。此れに力を得て、美成ぬしに『同友左司間が来て、極月には例の如く寒行はじまる故に、十一月の末までに、登山せよと云ひ遣はされたり』とのみ語りて在りけるに、十月朔日に、大人(うし)と屋代先生と訪ひ来まして、何くれと問ひ給へる事どもの、人の問へることは事替れるが、心に応(こた)へ、ことに大人の美成ぬしを制して、『僧に成れとは勿(な)勧めそ。入り立ちたる道を遂げしめよ』と言へるが、いと嬉しく辱(かたじけな)く、『我が許へも来たれ』と返す返す言(ことば)を残し給へりしかば、直ぐにも参らばやと、心すゝみて、師より左司間を使ひにて、近きほどに汝が便りとなる人有りと云ひ遣はされしは、此の人々の事ならむと頼もしく、時を待ちて侍りし」と、後に委しく語りけり。
  


十月六日に屋代翁より、けふ夕方に美成が寅吉を伴ひ来たるよし云ひ遣はされたるに、訪(おとな)ひてまた種々の事どもを尋ね、さて美成に、「此の童子山風の誘ひ来つれば、疾(と)く帰らむも計りがたし。我が方へも、いかで伴ひ呉(く)れよ」と言へば、「明日伴はむ」と云ふに、甚(いと)嬉しく、佐藤信淵(さとうのぶひろ)、国友能当(くにともよしまさ)なども寅吉に逢はまほしく云ひし故に、其の夜に消息すれば、皆悦びて七日に早く来集(つど)ひつ。童子が好むべく覚ゆる菓子、その外とも取りよそへ、小嶋主よりは童子に饗(もてなし)せむ料にとて鮮(さや)けき魚など賜はりて待ちけるに、夕方に美成より手紙をもて、「今日は伴ひかぬれば、時を見て伴ひ侍らむ」と、云ひ遣はせたるに、集へる人々空しく帰りぬ。我が家の者どもゝ、今や来たると待ちけるに、斯く在りしかば、いと本意(ほい)なしと力を落す。己れつらつら思ふに、「美成言(こと)(よ)くは云へど、我が方へ遣はすを惜しむ状に見ゆれば、遂に連れ来たらじ。其の間にもし山に帰りてば、弟子どもゝ本意なく思ふらむ。振りはへて彼が宅へ物せむ」と、八日の昼まへに、妻と岩崎吉彦、守屋稲雄とを連れて美成がり行きて、「昨日は待ちて在りけるに来ざりしかば、本意なく思ふ故に、家内の者ども連れて来たれり。いかで童子に逢はせ給はれ」と云ひ入るゝに、美成が母出でて、「美成は外へ出でたり。童子は今朝その母の方へとて出で行きたり」と云ふに、また力なく帰れるが、(後にきけば、此の時童子は奥に居て、己れが店まで行きたるを見聞きしつれど、隠れ居よと私語(ささや)く故に、逢はまほしくは思ひしかど、詮方なかりしと云へり。)途にて連れたる者ども、みな「童子は母の許へ行きたる由なれば、彼の方へ直ちに尋ね給はばいかに有らむ」と頻りに勧むるにぞ、己れも然る事に覚えて、七軒町へは間遠からねば、皆うち連れて尋ねつ。
  


辛ふじて其の家を探り得たるに、裡住居(うらずまい)のただ一間ある家にて、母のみ居たり。「寅吉が来つるか」と問ふに、兄といさかひて下田氏へ行きたる後は、たえて来たらざる由にて、美成が許に居る事さへも知らざりけり。然れば美成が方にて、母が方へとて出でたりと云へるは、早く偽りにぞ有りける。直ちに帰らむも憾(うら)めしければ、寅吉が生立(おいた)ち、また異人に誘はれたる事の始末など問ふに、生立ちの事は委しく語りしかど、神誘ひに成りたる始末をば、此の頃になりて人の言ふによりて、ほぼ知りたる趣なり。偖(さて)この日も遂に童子に逢はで空しく帰りぬれど、母の物語りに、童子の生立ちなど種々聞きたるに、なほ種々問ひ(ママ)まほしく思ふ心いや増さりて、美成がしわざの心憎くは思へど、此は彼が心を取るにしかじと、物など贈り、また屋代翁にも頼み、親から行きもして心を取りしかば、十日の昼なりしが、手紙をもて「明日の夕方参るべし」と云ひ遣はせたり。此の時しも佐藤信淵来合ひたるが共に悦び、「七日の日に国友能当が吾と共に遠き四谷の里より、態(わざ)と来たりて空しく帰れること気の毒なり。我が方より明日つとめて消息せむ」と云ひて帰りぬ。
十一日の朝早く屋代翁がり、夕方に美成が童子を伴ひ来るよし消息す。然るに下総国香取郡笹川村なる須波
(諏訪)社の神主、五十嵐対馬、もの習ひにとて江戸に出でて、此の日我が許へ来たれり。八半時に屋代翁その孫なる二郎ぬしを伴ひて来たらる。国友能当、佐藤信淵も来たり、折よく青木並房も来合ひたり。小嶋氏家内みな来たらる。塾には竹内健雄、岩崎吉彦、守屋稲雄などあり。申の刻過ぎれど美成来たらねば、皆待ちあぐみけるに、屋代翁消息したゝめ、使ひを遣はさむとしける時に、童子を伴ひて美成来たりぬ。此れぞ寅吉が我が許へ来つる始めなりける。
(さて)童子にかねて約しつる岩笛「○石笛 二ノ十二丁ウ」を見せけるに、自然の状にて音の高く入るが、甚(いた)く心に応(かな)ひて悦ぶ事限りなく、吹き入るゝ音もよく入りて、止まる期(とき)なくぞ吹き鳴らしける。此の日問へる事どもは云々(しかじか)の事などなり。皆感じ驚く事どもなるが、中にも「鉄炮ありや」と尋ぬるに、「鉄炮は世にある常の鉄炮なるが、外飾は聊か異にて、大きなるも小さきもあり。また風をこめて打つ鉄炮もあり」と云ひ出でたるに、我も人も此の頃国友子が風炮「○風炮の事 一ノ三十一丁」にいたく驚きをるに、此を聞きて更に驚きて顔見合せける中にも、国友能当は殊に甚(いた)く驚きぬ。これ己れと共に仙炮の事を問へる始めなり。(然るに此の事におきては、己れが尋ぬるよりは、国友子が尋ぬるさま、然すがに其の得たる道ゆゑに、意得る事早き故に、此は能当に委ねて問ひたる趣、図に著せるが如し。実に此の事は己れいかに思ふとも、しか明らかには問ひ明かしがたき事なるを、国友無からましかば、あたら仙炮の世に伝はらずかし。)また此の時、試みに奉書美濃紙などを出だして、物書かしめたるに、運筆凡ならず、人々此れにも驚きぬ。是れぞ童子が大字を書きたる始めなりける。(此の前にも、事の因(ちなみ)にいさゝかは書きつれど、ただ半切などに小字を書きたるまでの事なりしかば、見苦しき故に誰も美しき大字を書き得べしとは思はず。寅吉みづからも、世間の文字はいくばくも知らず、山にて習ひたる字は世間の字と形の異なるを、人の笑ふべく思ひて、書かざりし由なり。細字を世間に書く状に書き得ざる事は、山にて手習ふには手に砂を抓(つま)みて習ひはじめ、いまだ小字を書くことは習はざりしと云へり。さて童子が書、またその運筆をば屋代翁をはじめ書に賢き人々は皆驚き称する事なり。猶次々にも此の事の出づるを見るべし。)(さて)何くれと物語るほどに、早くも戌の刻になれば美成は帰りを急ぐ由にて暇を乞ふ。いと残り多く思ひて、「今しばし」と止むれど止まらず。こゝに長笛を製(つく)らしめて、世に伝へたく思へば、「また近き程に」と返す返す云へば、諾ひて伴ひ帰りぬ。
翌十二日に岩崎吉彦を使ひにて、昨日の夜の謝を言はしめ、貸さむと約したる鉗狂人
(けんきょうじん)の書を持たせ遣はし、更にまた「笛製(つく)らむ料の竹を求めて待ち居(お)らむ、近き程に童子を貸し給へ」と云ひ遣(や)りけるに、間もなく童子を伴ひて走り帰りぬ。「いかに」と問へば吉彦云はく、「大人(うし)の宣はせる如く申して侍れば、美成が母出でて、『寅吉は流行子(はやりこ)にていと鬧(さわ)がしく今日も早く美成と伴ひて
他へ行きたり』と云ふ間に、童子は我が笛作る竹を求むといふ声を聞きて奥の間より走り出でて、『笛の竹買はむとならば、我も共に行かむ』と云ひて、外にかけ出でたるに、美成が母は甚(いと)心苦しく思へる状(さま)に見えつれど、又しも『他へ出でたり』と云へるが憎さに、『いざや』とて伴ひ侍り」と笑ひつゝ云ふに、予もをかしく、「常には汝が遠慮なきを叱りたれど、今日のみは遠慮の無きが用に立ちけり」と云ひて笑ひぬ。然るに童子は辞儀もせず、来るとやがて神前なる岩笛を吹き鳴らし、「かばかり自然の面白き物はなし」と悦びて、また止むる期(とき)なく、人の言(ことば)の耳にも入らぬ状なるを、菓子など与へ、予も共に種々の戯れ遊びなどして見合せつゝ、岩笛の成れる始めの考へ、石剣の事、矢の根石のこと、石を造る方、また石をつぐ法、月に穴ありと云へること、星を気の凝(こ)れる物と云へる事、空行の委しき事ども、人魂の行方、鳥獣の成り行きなどの事を問ひたりき。此の日昼前に来合ひたるは、五十嵐対馬、竹内健雄が母刀自などなり。
然るに予が家のまた隣にて、所謂はごと云ふ猟事して、数丈なる高木の枝に鳥黐
(とりもち)をつけ、媒鳥(おとり)を出だして日々に鳥を捕るを、予が妻の母なる人の、常に無益の殺生を厭(いと)ひて在りけるに、をりしも鵯(ひよどり)のかゝりければ、居合ひたる者ども立ち見て、「また鳥のかゝりつる」と云ふを、童子聞きて「今の間に其の鳥を放ち飛ばして見せ参らせむ。茶椀に水を賜はれ」と云ふに、与へつれば、我が書斎の椽側に立ち居て、太刀かきの真似などし、口に何やらむ唱へつゝ、茶椀なる水を指先にてはじき注ぎ、吹飛ばす状をなす。爰に己れも対馬も立ちて見るに、体も羽も多く指したる枝にひしとつきて、少しも動かず。殊に我が書斎よりかのはごの所までは三十間余りも有れば、心中に、いかに神童なりとも、彼の所までは咒(まじな)ひとどくべしとも覚えず。放ち得ざらむには、恥見する事ぞと、此を放つ事能はじと思ひて、「彼の鳥を飛ばしてば、捕人の本意なく思ふべし。止めよ」と云へど、童子はひたすら咒ふを、人々に目合せして、
傍らより然しも促さしめず、対馬と予とは、わざと知らぬ状にて在りけるに、立ちて見居たる者どもの、「すわや鳥の片羽の放れたり」と云ふに、予も対馬も立ちて見れば、右の羽がひ誠に放れて、見るが間に左の羽がひも体も放れて下りたるが、また中なる小枝の多く指したるはごにつきたり。甚(いと)惜しき事と見るに、童子は猶も咒へば、また下なる枝に落ち止まり、羽づくろひして飛び去りぬ。其の落ちたる状を見るに、黐は蛛の糸の如く引きたりき。然れば咒ひにて力なくうすく成れりと思はる。人々甚(いた)く感ずるに、童子は更に珍しとも思はぬ状にて、「いざ竹買ひに行かむ」と云ふ。
己れ云はく、「其は今に我も共に行きて買ひ来たるべし。其の前に、己れ常に風の神を信仰にて、験
(しるし)を得たる事数々あれば、いかで其の幣(ぬさ)を切りて得させよ」と云ふに、「明日に為給へ」と辞(こば)むを、しひて請ひて、紙と刃物を出だせば、なまなまに諾ひて、切りかけたるが、切りさして数度立ちて虚(空)(そら)を見て、「今日はまづ見合せ給へ」と云ふを、「いかに」と問へば、「風の神の幣を切る事は大切の伝を受けたる事なれば、切るまゝに東の方に雲起りて、其の雲西に渡れば風吹きて、終(つい)に雨降るなり。然(さ)ては竹を買ひに行くこと能はざる故に、明日に為給へとは申すなり」と云ふ。爰に己れ云ひけらく、「然ばかりの験あらむと思へばこそ請ひつれ。よし雨降り風吹くとも、何てふ事か有らむ、我みづから買ひに行かむ」と云へど、なほ辞(こば)むを猶強ふるに、止む事を得ず、左右に虚空(そら)を見て気遣ひつゝ、切り畢(おわ)りて神をうつし、此を用ふる時のしわざをも伝へて、神籬(かみがき)に納めたる程に、はや一点も曇りなき青虚(空)に、東の方より言ふが如く雲起りて、西に渡らむとし、既に風も吹き出でたり。寅吉「
さればこそ」と騒ぎて、「切りたる幣をまづ出だし給はれ」と云ふを、己れなほ辞(こば)みけれど、強(あなが)ちに云ふ故に出だせば、しばし祈念してまた納めしめ、夕暮れまで移したる神功を封じ奉れり。「其の間までは雨風あらじ。然れど暮相には起り候はむ」と云ひき。さて稲雄を共にて、寅吉を伴ひ筋違外なる竹川岸へ竹を見に行きて、往来の途々聞ける事共は、「此のすこしの道を遠いといふがあやしくて問へること」七韶舞(しちしょうのまい)に用ふるリンと云ふ琴の事、短笛のこと、羽扇(はうちわ)のことなどなり。斯くて竹をとゝのへ帰りて、其の日来たれる番匠に竹を九尺と一丈とに切らせ、洗はせ抔(など)する程に、小嶋主も来られて、己れまた健雄、稲雄、対馬らと共に、舞の事尋ねて在りけるが、既に未(ひつじ)の下だりと覚ゆる頃に、美成が許より「急ぎの用あれば、寅吉を此の使ひと共に帰し給へ」と云ひ遣はせたり。いと残り多けれど詮方なし。寅吉も本意なげに「明日また参るべし」と、心を残して帰りぬ。(かくて此の日のくれあひに、果して風出で氷雨降りつ。)さて此の夜は更なり、翌くる十三日の夜にも、門人どもの打寄れば、ただ寅吉が噂のみするを、己れも共に、「間もなく山へ帰ると云へば、帰らぬ間にいかで笛をば製(つく)らせたき物なり。然るはおのれ音曲の事は得知らず、元より謂ゆる好事(こうず)に種々の物集むる事は好まねど、幽界にもかゝる物は有りけりと人に知らしめ、彼の界(さかい)の道の八十隈(やそくま)とき明かさむ其の証(あかし)ともなるべき物と思へばなり。然れど美成が甚(いた)く童子の我が許へ来たる事を惜しむ状(さま)なれば、遂に笛を作りはてじ」と歎息しけるを、健雄、稲雄は殊に心苦しく思へる状に聞き居つるが、十四日の朝にて、門人どもは朝ごとに我が前に出でて朝の機嫌を問ふを、今朝しも健雄と稲雄が見えざるは何処へ行きつらむと思へるに、辰の半刻ごろに帰り来たれり。「何処へ行きつる」と問へば、二人が云はく、「笛を作りはてじと大人(うし)の歎き給ふに、己れ等もしか思へば、二人が語り相ひ、童子の母、兄などに聞けば、美成が許に童子の居る事さへも知らぬ状なり。然れば美成は、童子の主と云ふにも非ず。然れば童子の母と兄とに語りて、童子を大人の許に呼びてむと議(はか)りて、今朝早く彼の宿へ行きて、兄荘吉を美成がり遣はして、童子に逢はしめ、『宿に用あれば帰れ』と云はしめたるに、彼の童子は元より家に居る事を嫌ふ故に『来たらず』とて、兄は空しく帰れるに、二人が力なく帰り侍り」と云ふ間に、日々に来る番匠の今日も来たれるが戸口にて、「彼の小僧どの一人今此の門前を七軒町の方へ周章(あわ)てたる状に駆けて通りつ」と云ふに、二人は立上りて、「それ留めむ」と駆け出でたるに、童子は飛ぶが如くに、はや半町ばかりも行き過ぎたるを、二人も後より疾(と)く追及(おいつ)きて、「何処へ行く」と問へば、「今より山に出で立つなり。其れにつき急ぎの事ありて、宿へ行く」よしを云ふに、二人は、さてこそと驚きて、「しばし立寄れ」と云ふに、承引(き)かざるを、左右より手を取りて、まづ我が家の入口まで伴ひ来て、其の由を云ふ。爰に己れも立出でて、「兼ねては十一月の末までに登山する由云へるに、如何して発足のしか急になりし」と問へば、「俄に変事の出で来し故に、今日急ぎて発足せまほしく成れり。其れにつき、また登山の時に必ず持ち来たれと師の命ありし一通を、宿に残し置きたれば、取りに行くなり。放ち給へ」と云ふに、己れもあきれて其の面を見れば、眼もさか立ちて物狂ほしげに見ゆるを、笛を作らざるが余りに憾(うら)めしくて、其の事を云ひ左右の手を取りたる健雄、稲雄は、「まづ好みの岩笛吹きて心を静めよ」など云へど、耳にも聞き入れず。引き放ちて駆けり行かむとするを、二人して抱き上ぐれば、童子も少し困りたる状にて、「然らば今の間に笛作らむ、作り畢へたらむには、速やかに帰し給ふべし。然るにても家に置きたる一通のこと、気遣ひなれば、其を取りて来侍らむ」と云ふに、稲雄が「そは我とりて来たらむ」と云へど、「その在り所しれねば、我行かむ」とて立出づるに、健雄、稲雄は、また見失はむ事を思ひて、共にそひ行き、母と兄とに山へ発足する由を告げ暇乞ひせしめたるに、兄は別れを惜しみて泣くを、母はいと思ひきりよく、「斯く我儘に生れ付きたる者なれば如何はせむ」とて、肌着すまし物などさすがに取出だして与ふるに、「山へ行きては我々如きは服物を重ねず、同じ物を二つ持つまじき掟なれば、入[要]らず」とて何も受けず、かの一通を取出だし、兄の別れの盃せむとて取出でたるを、入らざる事と返り見もせず、健雄、稲雄に「いざ参らむ」と云ひて家を出でしとぞ。(此の一通の事、甚(いと)床しくて請ひ見れば、かの白石丈之進が授けたる一通にてぞ有りける。此を大切にせる由は既に上に記せり。)(さて)我が家に来たれば、やがて笛作りかゝり、一丈と九尺の雌竹の節をば「何にして抜くらむ」など人々のいぶかしみ云ふを、茶椀に水と火箸とを乞ひて、節間に火箸を入れ水を注ぎ入れつゝ、ひたと石に突当つれば何の事もなく抜きたるを、篠竹の長きを入れて上下したれば、中に残れるも美しく通りぬ。斯くて穴の間の寸をもりて、鼠歯の錐もてもみて忽ちに長笛二管を作り畢へて、「然らば発足せむ」と云ふを、家内の者ども、又来相ひたる小嶋主、佐藤信淵、五十嵐対馬、小林元二郎など何くれと、まぎらし石笛を吹かしめ、菓子などすゝめて心を取れば、少しは和(なご)みつゝも落つきがてに、ともすれば駆け出でむとするを、猶逗めて短笛をも作らせたく思へど、詮方なかりしが、ふと昨日伴信友が来つるに、童子の噂をして石笛を甚く悦べる由を語りしかば、「然もあらば君のかねて賜へる芦根石の笛を与へばいかに有らむ」と云へりし事を思ひ出でて、「我が岩笛よりは甚く小さけれど、音色は面白き石の笛あり。此はおのれ去年上総国にものしける時に、浜辺にて二つ拾ひ得たり、其を屋代翁と伴信友とに贈りたるが、汝の石笛を好むよしを語りしかば、信友が笛を与へむとの事なり。其を今取りに遣はさむ。使ひの行きて帰るほどを待つべし」と云へば、「然も有らばしばし待ち候はむ。然れど先生の得手なる足どめの咒(まじな)ひなどは為給ふな」と云ふに、岩崎芳(吉)彦を急ぎ立て信友がり遣はしつ。(信友は、酒井若狭守殿の藩にて、州五郎といふ。殊に親しく交らふ友なり。牛込矢来下といふ所の中屋敷に住すれば、予が所よりは一里半ばかりも離れたるべし。)然るにおのれ童子が十二日の夕がた、我が家を帰れる時までは、我をしたふ状(さま)に見えけるに、今日は甚く心遣ひなる状(さま)にて、帰らむとのみ為るが不審(いぶか)しく、はた「得手なる足どめの咒(まじな)ひ為給ふな」など云へるが、心にとまりて「今日の有り状只ならず、故こそ有らめ」と尋ぬるに、笑ひて言はざりしを強ひて問へば、「先生は種々の咒禁を知り給ふ故に、我を止めて山に帰さじと、足止めの法を行ひ給ふ由を云ふ人あり。然る事にあひては、我が行の害となる故に、早く此の難を遁れて、急に山へ行かむと思ひなりて侍り」と云ふ。「我は法ごと、咒禁など一つだに知らず。誰れがしか云へる」と問ふに、其の人を云はざれば、「我が心は誰れにもあれ、志して入り立ちたる道は邪道ならずば力を副(そ)へても遂げさせたく思ふ故に、既にはじめて汝に逢ひたる時に、美成が僧になれと勧むるをさへに止めたりき。然れば夢々然る法を行ひて、汝の行を妨げむとは思はず。心おく事勿(なか)れ」と返す返す暁(さと)せば、やゝ心とけたり。(この遥か後に、稲雄が此の時の事を委しく尋ねしかば、「十月朔日の日に、大人(うし)に始めて逢ひ参らせけるより、不思議にも慕ひ奉る心深く、美成ぬしに、平田先生の許へ行かむと云へど、止めて行かしめず。『平田は神道を好みて弘むれど、神は利益なく、仏の利益あること、世に神社の衰へて寺の盛んなるを見て、神道の仏道に及ばざる事を知れり。かまへて神道をやめて、仏者になれ』とすゝめられ、『十二日に用ありとて呼びに遣はされし時、然しも用は無かりしかど、平田に神道を勧められむが気の毒なる故に、呼びよせたり。笛を作りたく思はば、我その竹を買ひて与ふべし。平田へは必ず行くこと勿れ』とて、孝子善之丞物語といふ、地獄の恐ろしき事、極楽の楽しき事、仏の尊き事などかける書をよみ聞かせける故に、また平田へ行きて笛作らむと云ふこと叶はず。山にて師に聞きたるとは甚く違ふ事なれど、争ふこと勿れといふ誡めあれば、わざと諾ひたる状にものして有りけるに、十四日の朝に兄が来て我を呼び出だし、平田様より呼びに来たりつと云へる声を聞きて、家内の人々、『平田といふ人は咒禁の法をも知りたれば、然ばかり汝を留めたく思へば必ず呼びて足どめの咒ひせむとの事なるべし』と云へる故に、『さては我が行の害となる事なれば、此方に知らさず、急に山へ行かむ』と思ふ心つきて、彼の一通をとり帰らむと、思はずも御前を通りて強(あなが)ちに呼びよせられたること、師より左司馬を使ひにて、汝が便りとなる人有らむと云ひ遣はされたるに符合して、いと不測なる事なり」と語れりとぞ。)是れよりまた種々の物語りとなり、空行の事にも及びて、対馬が「星はいかなる物ならむ」と云へるより、星の〇〇を通れる事、月に穴有りしこと、云々(しかじか)の事の物語にも及び、又文字を書きてと請へば、此の世に見ざる種々の字をいと多く書きける。此の世間の字も多かる中に、神風野福、神野心鬼、鬼野心神などいふ語をも書けり。此は彼の界(さかい)の熟語なるべく覚ゆるに、其の意の知らま欲しく、また朝開ともかけり。此は万葉集に見えたる発辞なるを書きたるも床しく、偖(さて)書く程の文字を「其の訓(よみ)を知らず」と云ふ故に、「何(いか)なる故ぞ」と問へば、「彼の界の手習ひには先づ文字を有りのことごと異体までを習はしめて、其を用ふべき時の至れば、一時に啓発して覚らしむる法なり」と云ひて、あまたの中には異体ながらに読み得らるゝ文字のあるを傍らより読むに、「かく我だに知らざる文字を読むと云ふ事やある」と云ひて悦ばざるが、後までも読まざりき。偖この時かける字どもは、大抵謂ゆる上代様の状に見えたり。(小嶋主の言に、「彼の境の字の、かく上代ぶりなるは、空海法師も早く死解仙となりて、今に彼の界に在りと聞こゆれば、伝へたるにや」と云はれたり。然も有るべく思へるに、寅吉後に云へるは、「彼の界には元より上代の書法伝はれり。師の言に『弘法は世間にてはよき手と云へども、いまだ上代の筆法の骨法を得たるには非ず』と云はれし」と語りき。さて寅吉後までも自ら書きたる文字を一字も読みたる事なく、「読みを知らず」とのみ云ひて有るは、誠に知らざるか、知りつゝも故ありて読まざるか、今に心得がたし。)斯在(かかる)に申の刻と思ふ頃に、芳彦かの石笛をとりて信友が許より帰れり。其の譲り状に
石笛御懇望の由承り及び候所、篤胤より貰ひ候ひて所持致し候間進上
致し候。万世神界にて御重宝下され候はば本望なる可く候也。謹言。
文政三庚辰年十月十四日           伴信友花押  
          白石平馬君
とぞ書きたりける。童子悦ぶこと限りなく、速やかに吹き鳴らして、「さらば今より発足せむ」と立上がるを、「今日は七
時過ぎたれば日はやがて暮るゝなり。今夜は此方に止まりて、明日発足せよ」と皆々いふが中に、誰にか有りけむ、「今夜こなたに止まりなば、此の人数にて目隠しの遊びせむ」と云ふに、何(いず)れも「それ宜からむ」と云へば、寅吉手を拍(たた)きて大きに悦び、「然らば止まり侍らむ」と云ふにぞ、日の暮るゝ頃より予は更なり、竹内健雄、佐藤信淵、五十嵐対馬、守屋稲雄、岩崎芳彦など、何れも寅吉が心をとるとて、亥の刻過ぐるまで目隠しの遊び為たるに、猶果しなく為(せ)むと云ふを、「夜の更けたれば又明日こそ」と云ひて寝かしめぬ。斯くて十五日になりて、朝も早く起きて食事終ると、はや「目隠しせむ」と云ふを、「この遊びは長者(おとな)も交りてするには、昼は為る事に非ず」と言ひ諭(さと)せば、なまなまに聞き入れて、「然らば夜になりてこそ」と云ひて、この遊び故に登山は十一月の末までにて宜しとて、かの進(そ)り心のいと静かになりしこそいと可笑(おか)しけれ。さて此の日の昼前に、誰も進めざれど、短笛をも三管つくり、七韶舞またその唱歌、長笛、短笛の吹く状をもいと懇ろにぞ教へける。こを習へるは、小嶋主、守屋稲雄、予となり。
然るに余は昨日の夜より寒熱
(あつけさむけ)のある心地せるが、この昼過より熱甚くさして、悪寒もつよく、決はめて疫症ならむと思ふばかりに苦しかりしかば、病臥して在りけるに、寅吉傍らに居よりて、熱冷しの咒ひといふをしつ。其は夜に入りて目隠しの遊びせむとてなり。不測にも疫症の如くなる熱たちまちにさめたり。然るに七時ばかりに屋代翁と、荻原専阿弥ぬしと伴ひ来まして、童子に逢ひて、猶七韶舞のこと、其の楽器の事など尋ねらる。己れも病おして出逢へば、「いかにして童子はこなたに来つる」と問はるゝに、昨日門前を通るを、抱き入れて笛を作らせたる始末を語り、「美成が家に居る人を心の儘に止めたるは義理違へれど、然る義理をのみ立てば遂に笛は成るまじく、しばしも止めて彼の界の事を聞かまほしく思ひし故に、かく計らひつ」といへば、屋代翁も笛の成りたる事は悦びつゝも、「疾く美成が許へ返しね」と云はるゝに、童子云はく、「我が美成ぬしの許に居る事は、奉公といふには非ず。遊びに来たれと言はれし故に行きたるなれば、今夜はこなたに遊びて居たいから、ゐたといへばよきこと。明日かの家へ罷らむ」と云ひて帰らず。其の夜も塾中の輩、また僕等にねだりて例の遊びなりき。
さて翌十六日の昼前に、健雄、稲雄と二人を副へて、童子を美成がり遣はして、此を押止めたる由を謝せしむ。然るにその昼過ぎと思ふ頃に、童子は旅装束にて来たれり。「いかに」と問へば、「美成ぬしの早
(と)く山へ発足せよと云はるゝ故に、立出でたるが、暇請(いとまご)ひせむと思ひて、立寄りはべり」と云ふ。「然らば今日は既に遅し。今夜は我が許に宿りて明日発足せよ」と云へば、「然らば」と云ひて止まりぬ。試みに「常陸国へ行く道を知りたるか。路用は持ちたるか」と問ふに、「美成ぬしに※(もら)[※=貝へんに青の旧字]ひたり」とて、八百文計りを取りいで、「我が師に伴はれては多く空をのみ行きたる故に、下の路は知らねど、筑波山を向かひ見つゝ行きたらむには、遂には行着きなむと思ふ」と云ひて、少(いささ)かも案じる気色なし。いと哀れに覚えて、「守屋稲雄に彼の山の麓まで、送らせなむか」など議るほどに、五十嵐対馬があす笹川へ帰るとて、暇乞ひに来たれり。こゝに己れ対馬に云ひけらく、「寅吉が山へ行くに、其の路を知らざる由なれば、いかで笹川へ伴ひて、暫く汝が家に留めおきて、幽境の事をし探ね、笹川より筑波山へは間近ければ、麓まで送りね」と云ふに、対馬いと易く諾ひて、「然らば明日つとめて御許に立ちより、伴ひ侍らむ」と云ひて、旅宿へ帰りぬ。夕方に寅吉が兄荘吉来たりて、弟にあひて別れを惜しみ、「母人はいと思ひきり宜けれど、我は兄弟数人ある中に、男とては汝ばかりなれば、共に心を合せて、母を養はむと思へるに、いつ逢ふべくも計りがたき境に行くこそ力なき事なれ。何時かまた帰るべき」と顔も得上げず泣くを、寅吉は瞬きもせず眼をはりて、兄が涙ぬぐふを、いと異(あや)しく思へる状にうち守りて、「男は泣く物に非ず。いかに思へばとて我は因縁ありてかゝる身と成りしを、今更いかにせむ。我をば死にたる者と思ひて、母をば兄一人にて養はれよ。我は母の命ある限りは、年に一度は必ず来たりて、力になるべき事は助くべし」と云ふに、兄は猶かきくどきて別れを惜しむを、傍らよりも、「寅吉はかく神に見入られたる者なれば、其の心にも任せぬ事と見ゆ」など慰むれば、兄も心得て涙ながらに帰りぬ。後にて寅吉云はく、「我も親兄弟の別れの悲しき事を知らざるには非ねども、彼の境の慣ひにて、泣くことを堅くいましめ、かつ未練の心をもちて、山入り
せる後にて泣きなどすれば、修行の害となり、行を為損なふものなる故に、わざと兄をつれなく持ち成したるなり」と云ふに、居合せたる者ども、「兄弟ともに道理なるいひ言にて、何とも裁断しがたし」と、中には涙ぐむも有りけり。
斯くて翌十七日の朝に、対馬は約せる如く、旅装束にて、供なる者と二人にて立ちよれば、寅吉悦びて旅の支度す。こゝに己れ昨日の夜したゝめ置きたる山人への消息と、はなむけの歌とを書きて渡せば、稲雄が与へたる笈箱
(おいばこ)に納(い)れて背おひ、また同人にこへる藤の木の長杖をつき、信友が授けたる芦根石の笛に紐をつけ、腰にさげて、立出でむとすれば、今朝此の子が行末を祈ると、阿須波の神に奉れる御酒もて山入りを祝ひ、諸共(もろとも)にしたらを打合せ、家内の者ども笠よ草鞋と世話をやき、涙ぐみつゝ門口まで見立つれば、見返りつゝ莞爾と笑ひて出で行きける。跡を見おくり女どもは涙を落して噂するを、己れ「別れを惜しみ泣きなどしては、彼が修行の妨げとなる、と云へるを忘れたるか」と、叱りはしつれど、涙は胸にせまりてぞ有りける。此の時山人へ送れる消息の文左の如し。
「今般慮はざるに貴山の侍童に面会いたし、御許の御動静、略承り、
  年来
の疑惑を晴らし候事ども之れ有り、実に千載の奇遇と辱(かたじ
   けな)
く存じ奉り候。其れに就き失礼を顧みず、侍童の帰山に付し
  て、一簡呈上いたし候。先づ以て其の御衆中、ますます御壮盛に
  て、御勤行のよし万々恐祝奉り候。抑々神代より顕幽隔別の定り
  之れ有る事故、幽境の事は現世より窺ひ知り難き儀に候へども、
  現世の
儀は御許にて委曲御承知之れ有る趣に候へば、定めて御存
  じ下され候
儀と存じ奉り候。拙子儀は、天神地祇の古道を学び明
  らめ、普く世に説き弘め度き念願にて、不肖ながら先師本居翁の
  志をつぎ、多年その学問に酷苦出精いたし罷り在り候。併しなが
  ら現世凡夫の身としては、幽界の窺ひ弁へがたく、疑惑にわたり
  候事ども数多
(あまた)これあり難渋仕り候間、此の以後(のち)
  御境へ相願ひ御教誨を受け候ひて疑惑を晴らし度く存じ奉り候。
  此の儀何分にも御許容成し下され、時々疑問の祈願仕り候節は、
  御教示下され候儀相成るまじくや。相成るべくば、侍童下山の
  砌
(みぎり)に、右御答へ成し下され候様偏(ひとえ)に願上げ奉り
  候。此の儀もし御許容下され候はば、賽礼
(さいれい)として生涯
  毎月に拙子相応の祭事勤行仕る可く候。偖また先達て著述いたし
  候、霊の真柱と申す書御覧に入れ候。是は神代の古伝によりて、
  及ばずながら天地間の真理、幽界の事をも考へ記し仕り候ものに
  御座候。凡夫の怯
(よわ)き覚悟を以て考へ候事故、貴境の電覧を
  経候はば、相違の考説も多く之れ有る可しと恐々多々に存じ奉り
  候。もし御一覧成し下され、相違の事ども御教示も下され候はば、
  現世の大幸、勤学の余慶と生涯の本懐之れに過ぎざることと存じ
  奉り候間、尊師へ宜しく御執り
成し下され、御許容之れ有る候様
  偏に頼み奉り候。一向に古道を信じ学び候凡夫の誠心より、貴界
  の御規定如何と云ふ事をも弁へず、書簡を呈し候不敬の罪犯は、
  幾重にも御宥恕の程仰ぎ願ふ所に候。恐惶謹言。
   平田大角
十月十七日                 平篤胤 花押

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