■平田篤胤・「仙境異聞」(3)
仙境異聞(上) 二之巻 平 田 篤 胤 筆 記
○予寅吉に始めて逢ひける時、その脈を診、また腹をも察(み)たりけるに、何 やらむ懐に紐の附きたる物あるを、大切にする状(さま)なり。守袋なるべく思 ひて在りけるに、其の後もをりをり懐の透き間より其の紐の見ゆるが、或とき 取落したるを見れば、黒き木綿のさい手を畳みたる物の如し。「其は何ぞ。い とも大切なる物と見ゆるは」と云へば、 寅吉云はく、「此は古呂明の頭巾なるが、下山の時に此を授けて、『汝しばらく人間(じんかん)に出づる故に、我が多年冠れる頭巾を与ふ、寒風の節こを冠れば、邪気に当る事なからむ』と、授けられたる故に、今日まで大切に肌を放つこと無かりしなり」 とて取出でたるを見れば、俗に山岡頭巾といふ物にて、いと古び油つきて見ゆ る故に、「髪に油を付けて結はざる人の頭巾に、油の附きたること合点ゆかず。 偖(さて)また此れと異なる頭巾は無きか」と問へば、 寅吉云はく、「此は髪の油に非ず。総身の精気の上りて凝(こ)りしみたるなり。凡て精気は滝にうたるれば、一旦は下がれども、下がり切(つめ)てはまた上り、上りてはまた下がるなり。上達の人ほど、上る精気強し。夫故(それゆえ)に此の頭巾は我等ごとき未練の者の、邪気除(よ)けともなるなり。偖また水行の時は、必ず手巾か何ぞ頭の真中に当て冠らでは、寒気を引込むものなり。偖外に此の世に見ざる頭巾は、寒気の時冠る芒(すすき)の穂にて作れる、図の如き頭巾あり」 (引用者注:岩波文庫本には頭巾の図なし。) ○問ふて云はく、「杖は神世より由ある物にて、神にも奉り、古き神楽の歌に も、『此の杖は我がには非ず山人の、千歳を祈り切れる御杖ぞ』とも有りて、 山人も杖をば止事(やごと)なき物にして、祝言(のりとごと)しつゝ切るにやと思 ふを、いかに杖は用ひざるか」 寅吉云はく、「杖は朴の木にて、棒の如く太く作る。竹の杖もあり。然れど杖を力にして歩行すると云ふ事には非ず。さて杖を切るに祝言あるか其は知らず」 ○問ふて云はく、「山人たち螺貝(ほらがい)を吹く事は無きか」 寅吉云はく、「彼方にては用ふる事なし。然れど山伏の貝を吹く事は、魑魅、妖魔を除(さ)るわざにて、上代よりの習ひなりと云ふ事は聞きたり」 ○問ふて云はく、「男子の霊(たま)の行方(ゆくえ)は、古今の事実に種々見え て、考へ得らるゝ事多かれども、女子の霊の行方は、古今の事実に然(さ)しも 広く考へ得らるゝ計りは聞こえず。此は師説に聞きたる事なきか」 寅吉云はく、「女の霊の行方のこと、聞きたる説(こと)は無けれど、一旦男に生まれて神になると云ふ事を聞きたり。此れに依りて思ふに女はもと、男の愚痴心の分かりて成れるにて、死しては其の魂混じて、愚痴なる男と生まれ、また女とも生まれ、さて此の世の修行によりて、男神となる故に、女の霊の行方の事の、然しも聞こえず、詳らかならぬ事かと思はるゝなり」 ○問ふて云はく、「毎年の十月には、出雲の大社へ、大小の神祇悉く集まり給 ふと云ふことあり。彼の境にても云ふ説なるか」 寅吉云はく、「此方にては、十月朔日に、神々大社へ立ち給ふと云へども、彼の境にては九月晦日に立ち給ひて、十一月の朔日に帰り給ふと云ふことにて、毎(つね)の如く両度の祭あり。偖(さて)大社へ集まり給ふことは、大社の神は神の司なる故に、氏神は氏子等の当年中の善悪を申し、来年中の事を定め、家内に祭る神等も其の事にて集まり給ふと云ふことなれど、神の御上の事なれば、委しくは知れず。大かた神界の事の山人界より知られざる事、人間界より山人界の知られざるが如し」 ○問ふて云はく、「其の祭り方は何さまにして祭る事ぞ」 寅吉云はく、「清き所の四隅に垂(しで)を付けたる竹をたて、しめを引き延(は)へ、真中に常の如く切れる幣(ぬさ)を立て、神体をよせ、大なる榊に垂と麻とを付け、種々の物を供へて祭るなり」 ○問ふて云はく、「しめの形は此方の如く、七五三になふ事なるか」 寅吉云はく、「然らず。刈り稲を籾の付きたるまゝ、図の如くなひ、垂を付けて引張る事なり。神事すみて後に、その籾を米にして食ふなり」(引用者注:岩波文庫本には、しめの形の図なし。) ○問ふて云はく、「榊は江戸の花屋にいはゆる榊なるか。真賢木(まさかき)な るか。櫁(しきみ)の木には非ざるか。また榊には垂のみ付けるか」 寅吉云はく、「榊とは云へども、今いふ榊に限らず。櫁にても、何にても、常葉木の枝の繁りて、真(心)の立ちたる腕の太さなるを採り来て、引裂きたる紙と麻とを付けるのみにて、余(ほか)に何も付ける事なく、左右左に、ゆさりゆさりと振りて、神前の真中に倒れざる様に、根じめを為て立て奉る事なり」 ○問ふて云はく、「供物の品々は何々ぞ。覚えたる物どもを語り聞かせよ」 寅吉云はく、「第一に水なり。其の外海川山の物、菓子何によらず、食ふほどの物は用意次第に供ふ。総て食物に限らず、木の葉にても何にても、志をもて奉れば、神へはとどく物と聞きたり」 ○問ふて云はく、「其の供物は何に盛り、何に置きて奉るぞ」 寅吉云はく、「供物は土器にのたき木の葉を敷きてもり、くろもじの木にて、図の如く作れる角盆、丸盆、また膳にもすゑて奉り、神の御座所へは杉の葉、また檜の葉などを敷き、のでむの箸を付けて奉る。偖またいつも神祭に、かの枕「貞治五年の年中行事歌合卅三番左神今食深けぬとて今ぞ手向くるいたまくら神もぬる夜の時や知るらむ」を神前に奉るは、いといと心得がたき事なり。(神供はいつも、のでむの箸なり。正月は更なり。)」(引用者注:岩波文庫本には、角盆、丸盆の図なし。) ○二月朔日初午(はつうま)の日に、「今日は山にても初午にて、賑やかなり」 と云ふ故に、「其の祭り状は、いかに」と問へば、 寅吉云はく、「まづ二壇ばかりに神欅(かみだな)をかまへ、上壇に稲荷神(いなりのかみ)の神体に准(なぞら)へたる、髭なき若き人をすゑ、次壇には其の末社に准へたる人々、五六人を居(す)ゑ、常の神祭の如くして、農具をそなへ、師装束を着し、襷をかけ、親(みずか)ら供物を料理して供へ、豊年を祈り祭らるれば、神壇なる人々その供物を皆食して、後に壇を下り、稲荷の神体と成れる人、指揮をなし末社に准へたる人々、供へたる農具をとりて、農人の年中に耕作する真似び、田をうなひ、種をおろし、植付け、草取り、刈蔵(かりおさ)め、稲をかつぎ、また馬につけて帰るまでの事を、真似びて仕舞ふなり」 ○問ふて云はく、「稲荷神の神体たる人、また末社に准へたる人々の装束は、 いか様の着物を着るぞ」 寅吉云はく、「神体となる人は、髪を図の如く結びて、図の如き櫛、三枚、また笄(こうがい)をさし、緑にても白にても狩衣を着て、くゝり袴を着し、末社に准へたる人々は、白き浄衣を着て袴を着する也。(引用者注:文庫本に髪の図なし。) 生霊祭の時は、髪をみづらに結ふなり」 三枚さす 笄金なり 柊か黄楊(つげ)か 巴の紋あり わからず ○問ふて云はく、「襷は何にてかくる事ぞ」 寅吉云はく、「正月の神祭には松葉襷とて、図の如く松葉をつぎ合せたるをかけ、其の外の神祭には、藤襷とて藤の蔓を用ひ、又楮(こうぞ)の皮、又麻などをも用ふるなり」 ○問ふて云はく、「師のみづから料理せらるゝは、いか様の物ぞ」 寅吉云はく、「自然薯蕷(じねんじょう)を、わさびおろしもて摺り、浅草海苔の上におき、其の上に塩少し、山椒一粒を入れて、図の如く包み、わり菜にてしばり、また浅草海苔に摺薯(すりいも)をならし置き、塩と山椒の末(こな)とを振りかけ、心に干瓢を入れて海苔ずしの如く巻き、両端かけて割菜にてしばり、また柏の若葉に海苔をしき、海苔の上に摺薯を置き、塩を摘み入れて、割菜にて結び、また紫蘇の大葉を一夜塩水につけて、摺薯に紫蘇の実の塩に漬けたるを、さつと洗ひて交へたるを包み、右四品何れも油もて揚げ物にして奉る。「姫百合、躑躅(つつじ)花、さつき、桜花、梅花、山吹、桔梗、はつ茸、椎茸、竹の子、しほ焼きにしても」但し柏の葉、紫蘇の葉などに包む揚げ物は、初午の時の事には非(あら)ねど序(ついで)に申すなり。また肴をば能く身どり、ゆでて、水に入れ、能々揉み洗へば、粉糠の如くなる時に、布に包みて絞り、葛粉を入れて麻布に包み、塩ゆでにす。「よし子を竹の子の様に煮て食ふ」また白槿(むくげ)の花を取り、紙の間に挟みて蔭干しにして蓄へ置き、用ふ時、酢に漬けて、「すゝきの穂の盆」干瓢、椎茸、蓮、慈姑(くわい)などを、いと細かに切りたゝき、味噌のたり(れ)をもて煮て能く染めたる時に、絞り上げて、其の醤油を水と合せて、糯米八合に餅米弐合ほど加へて飯にたき、煮上がりたる時に、かの干瓢、椎茸などを煮たるを入れて、たき上げ女竹を壱寸五分ほどに切りたる中に詰め、堅めて出したるに、一つ毎にかの酢につけたる槿の花を冠らせて供ふ。此を玉むすびといふ。一名を花鮨とも云ふ。花ともに食ふなり。偖(さて)赤飯、汁、またアリの酒をも土器に入れて奉るなり」 ○問ふて云はく、「油揚げをするのは何の油ぞ」 寅吉云はく、「松の実の油なり。此は南部の方にある由にて、松毬(まつかさ)は両手の拳を合せたる大きさなり。葉の細かなる松なりとぞ。用ある時は速やかに行きて採り来たり、実の堅き皮を去り、蒸して細かにはたき、太布の袋にもり、橿(かし)の木の厚板を図の如く削り、両方より鉄の輪を二つ嵌(は)めて打込み、垂らし取るなり。出でざれば幾度も蒸して、しむるなり。但し此は少しばかりの油をしめる仕方なり。多く醡*(しむ)るには常の榨(しめぎ)が宜しきなり。偖此の油をもて麩を作る事あり」(引用者注:醡*=酉+「窄」の下に「皿」の字が使ってあります。) ○問ふて云はく、「赤飯は糯米をただ炊きたるのか、餅米を蒸したるなるか。 いか様の炊法ぞ」 寅吉云はく、「赤飯は糯米を常の赤小豆と炊き合せたるなり。炊きかたはまづ小豆を水にて煮たて、一吹きしたる時に頰打ちとて、水を「飯を盛る麻の木の器のこと」少し入れて静め、また煮立ちたる時に洗ひ米を入れて、水かげむを察し、土壺に入れて堅く焼けたる塩を崩さず、よき程に取り分きて釜の真中に入れ、蓋をして炊上げるなり。如其(か)くすれば至りて色よく炊上がる物なり。また八重生(やえなり)、小豆の飯をも炊くなり。さて赤小豆飯の時は決めて煮しめを菜とす。蓮根、胡蘿菔(にんじん)、椎茸、干瓢、山薯、慈姑(くわい)などなり。八重生飯には決めて赤小豆の味噌汁なり」 ○問ふて云はく、「赤小豆の味噌は、いかにして作るぞ。此方に用ふる味噌は 無きか」 寅吉云はく、「味噌は此方のを取りて用ひもすれど、多くは赤小豆味噌を用ふ。その造りかたは、先づ米を硬く飯に炊きて干(ほ)し、火にかけて、ふくれる程に炒りて、沸湯に浸して能く水を去り、赤小豆を味噌の塩かげむに成るほど、始めより塩を入れ煮て、大概よく煮たる時におろし、冷して水を去り布袋に入れて絞り、さて摺鉢にて能く摺りて、かの干飯(ほしいい)の炒りて水に漬けたるを交へ、竹の筒に入れ風の入らざる様に口をして、三四十日も、なるゝまで釣り置きて用ふるなり。但し米を右の如くもすれど、糀にても宜しきなり。また糠味噌と云ふもあり。粉糠を炒りて塩湯を煮たて、□□りとかきて竹筒に詰めて釣り置くなり。総て豆の類ひは何にても、味噌に作る。また橡(とち)の実、栗の実も味噌になる。甘藷も味噌になりそうな物なり。凡て此の様な質の物は味噌になるなり」 ○神代に宇気母智神(うけもちのかみ)の御身より、蚕と桑の木と成りたる事を講 じけるを聞きて、「山にて桑の木の芽の二寸ばかりに延びたる時、一切、桑の 木をもて祭る神事あり。宇気母智神を祭るには非ざるか」と云ふ故に、其の祭 りざまを問ひしかば、 寅吉云はく、「まづ神壇にも、桑の枝葉を敷き、葉を細かに刻みて飯に炊き交へ、汁も桑の芽を味噌に摺り交えて奉る。さて総じて神に奉る汁を盛るは土器に非ず。杉の木の一尺廻り計りにて、すぢよく生ひ立ちたるを、たけ三寸計りに切りて小口に大抵七寸廻り程の橿(かし)の木の短き棒をあて木槌にて打つ時は、杉の木の心其の棒の太さに抜くるを、抜き終へずして繕はず、図の如く其の儘に作り、もし透き間あれば紙を詰めて此れに汁を盛りて奉る。凡て神具に用ふる物は然しも手の掛かりたるを用ひず、此の類ひに作りて掛け流しにするを善しとすと師の言なり。右の椀に汁を盛りて食ひたる事ありしに甚(いた)く食ひ悪(にく)き物なり」 ○問ふて云はく、「神降しの神楽は如何様にする事ぞ」 寅吉云はく、「神降しの神楽をする時は、まづ世間の小児を借り集めて浄衣を着せ、「○国開きの祭礼の舞」髪を唐子に結ひ、小竹をふさやかに束ねて持たしめ、「○磬声のこと○布袋に藁を入れてたゝく鳴ものゝこと」頭より水をあみ(浴)せ、山奥の広き平地に、図の如く竈戸を築き、釜を掛け、燃ゆる炎にて釜の隠るゝばかり大火を焚きて、湯をたぎらせ、種々神に供物を奉り、「○生きたる魚を供へる○供物を釜に入れて煮る」借りたる小児等にも種々の馳走をして機嫌よく心次第に遊ばしめ、湯の沸上がる状を見て、よせ奉れる神のきげむの善きか悪しきかを占ひ、「○どふしても神の願を聞き給ふ法あり。火をたきて色を見て吉凶を見てまた焼きて卜ふ○こての事」さて終りには釜の湯に、かの束ねたる小竹を浸して振り散らし、事終りて翌日に、借りたる子等をば親里へ送り帰す事なり。此を神楽と云ふ。此の神楽を行へば如何なる神と申せども、寄り給はずと云ふ事なし」 ○問ふて云はく、「碁、将棋、双六などの遊びは無きか。また若き山人などの する珍しき遊び事は無きか」 寅吉云はく、「碁をうつ事はたまたま有れど、将棋をさす事はなく、双六もなし。碁石をば木にても作る。さて戯れ遊びは種々有るが中に、土投げとて大勢東西に分かりて互ひに泥を丸めて山の如く積みおき、負けじ劣らじと打付け合ひ、顔も体も泥まみれに成りたる方を負けとするなり。また薪投げとて、杣人(そまびと)の山に切りおける薪を取りて互ひに投合ふ。上手同士なるは中にて木の小口と小口うち当りて落ちる。此も打しらまされて逃げたる方を負けとするなり。又球打ちと云ふ事あり。高き木の横に指したる枝に、一人を図の如く釣り置きて、長き紐に蹶(蹴)球の如き球を付けて持たしめ、其の下に角力の土俵ほどなる輪をしるして、其の内に大勢立居るを、木末より彼の球をさげて、下なる人の頭にあてむとす。当てられたる者を替へて釣る故に、下なる大勢の者ども当てられじと、丸の内を逃げまはるなり。其の喧ぎの紛(まぎ)れに輪の外へ足を踏み出しもすれば、此れも釣り上げらるゝ遊びなり」 ○往(いに)し卯の年に、己れ四十まり四つになりければ、俗に厄年と云ふ事を 思ひて、「四十まり四つの齢を今年より、一とかぞへて万世を経む」と詠みて 扇に書き付けたるが傍らに在りしを見て、「此の歌の心をいかに」と問ふ故に 云ひ聞かせければ、「山人の歳数を定むるも此の心ばへなり」といふ故に、其 の由を問ひしかば、 寅吉云はく、「山人の歳を定むる事は、いかにして定むると云ふことは知らねども、まづ千歳とも万歳とも定めて、其の数を百に割りて、其の一を一歳と定めたる物なり。其は譬へば万歳の定めなれば百歳を一歳とす。我が師は六百歳を一歳とせらるれば、定命は六万歳と見えたり。右の如く定めて其の一念を少しもたじろがさず、生涯善行をつみ、行を立てゝ、其の願を通す事なり。さて其の定めたる年数畢りては、身を隠して真の神となるとぞ。また人によりて、無歳とて年を定めず、世の有る限り活きむと定めたるもあり」 ○また此れより遥か後の事なるが、越谷なる或男の、讃岐国象頭山(ぞうずさん) に参詣して帰るさに、我が許に立ちよりて、寅吉に「何にても金毘羅神の尊き 物を書きて得させ給へ」と切に乞ひければ、此の字を書きて、「此は金毘羅方 の山人の上も無く尊き物にする、彼の山の御神の文字なるが、足下の切に請ふ 故に書きて参らするなり」と云ふを、予傍らより「此は何ちふ字にて、何に記 し有る字ぞ」と問ひしかば、 寅吉云はく、「此は何と云ふ字か知らねども、時々象頭山より廻らす巻物の始めに、此の字を光るばかり墨黒に記しあり。此の字を見れば象頭山より廻れる巻物と知る事なり」 ○問ふて云はく、「其の巻物は何の為に廻らす事ぞ。象頭山の神は凡ての山人 の君とおはします由などに依る事か」 寅吉云はく、「君とおはし座(ま)す由には非ず。山人各々をりをり山を替へて住む事あり。其は我が師の本山は信濃浅間山なれど、常陸国なる筑波山、また岩間山にも住み、或は諸越(もろこし)その外の国々の山に住まるゝ事も有り。「杉山と云ふは大山にあり」すべての山人此くの如し。夫故(それゆえ)に山々より互ひに此の人今は此の国に居ざるか、或は何れの国の山に住むと云ふ事を知らむが為に回す事なり。其の回状浅間山に来たれる時、師の居らるれば、みづから其の実名と書判と歳数とを記して返さる。山々にて連名する事、皆これに同じ。偖また師の許より回す巻物には、始めに此くの如き字を記さる。山々にて此れを見れば、即ち浅間山の巻物と知りて、各々連名して返すなり。山々より右の如くする故に、一年に二十度も来る事なり」 ○問ふて云はく、「その巻物に師の名のみを署(しる)して、属(つ)き従ふ人 々の名をば記さざるか。師の歳数は、いくつと記されしぞ」 寅吉云はく、「何れの山にても、ただ其の頭領たる山人の実名、花押、歳数のみを署して、属き従ふ人々の名は署さず。師と古呂明の歳は、いつも七歳と記さる。彼の無歳なる人は名の下に無歳と記しあり。(但し無歳と記す人は、死解仙なるべし。)」 ○問ふて云はく、「金毘羅様の御実名、いくつと記させ給へりしぞ」 寅吉云はく、「御名は何と云ふ字か知らざる字を二字書きてあり。御歳は八歳と有りし様に覚えたり」 また此れより遥か後に、皆川氏より寅吉に云ひ遣はさるゝ事ありて、革文筥 (かわふばこ)に入れて遣はせられしかば、其の事を調べて参らする時に、文筥 の紐を図の如く結びて首にかけ来たる。山より巻物を回らす筥の紐はかく結 ぶ。山々にて各々結びかた異なり」(引用者注:文庫本には、図なし。) ○問ふて云はく、「汝の師、杉山々人の事の物語は汝に常に聞けど、其の弟古 呂明の事は、然(さ)しも物語なきは何(いか)なる故ぞ。若しくは師の分身なる 故に、事のおぼろなるには非ざるか」 寅吉云はく、「古呂明といふ人は、至りて穏順なる人にて、常に師の業を補佐して、師の為す事、思ふ事を悟りて、師の許に居ては常に机によりて記録をなし、又は工物など何によらず種々の物をも作り、また国々山々に行きて事を弁ふるも、多くは師を労せず、師名(命)をも待たず、早く師の心を悟りて弁ぜらる。また我等如き輩の行の世話をもせらる。夫故に我等もし、徒(いたずら)をなし過失など有れば、此の後はかゝる事をなせそ、師の叱り給ふぞとて密(ひそ)かに誨(おし)へらるゝ事もしばしばなり。然れど師をさし越して我々に事物を教ふる事なく、師の彼に此の事教へよと言はるれば教へらる。師は威稜厳にして、一度をしへられし事を忘るゝ時は叱らるゝ故に覚えて忘れず。古呂明の教へらるゝ事は、忘れたらむには、又教へられむと思ふ心ありて、忘るゝ事も多くあり。分身には非じと思ふ由は、面ざしも異にて師は四十余りと見ゆるに、古呂明は四十には足らじと見ゆ。殊にをりをり師と議論の合はざる事あり。又は諫言せらるゝ事も時々あり。其を師の用ひられざる時に、然もあらば我は今より御許には居らじとて、他へ避(さ)り行かれし事も有りき。また或時の事なるが、何やらむ師に代りて書き記せられたる物の事にて、兄弟互ひに争ひ募りて、古呂明みづからの書かれし数巻の書物を、皆焼き捨てゝ出で行かれし事もあり。然れど其の時々しばし引き別れはすれど、互ひに情の通ふにや有らむ、また帰り来て異(かわ)りなく補佐して互ひに少(いささ)かも隔意ありげには見えず、誠に不測なる間なり。さてまた師の為むとする程の事を何によらず悟りて、古呂明の代り勤めらるゝ状と、其の間の睦まじきに合せては、右の如き争ひもあるに就きて、又殊に意得(こころえ)がたき一事あり。其は或とき師の何やらむ手を放ち難き事にかゝり居られし時、古呂明の代りて小便せられたる事あり。此一事今に心得がたし」 ○また或時、門人どもの貧困なるが、二人三人うち寄りて互ひに歎息しつゝ、 其の事語り合ひけるを、寅吉傍らにつくづくと聞き居て、「人間と云ふ物は、 山にてもいふ如く、世間の事に苦労する事なく自分一己の事だにすれば済むと 思へば、自在が成らず、長生きもならず、借金があるの、貸金があるのと云ふ て、苦労をする。山人は長生きにて、自在もなり、借金、貸金などいふ様なる 苦労はなしと思へば、世間の世話に鬧(さわ)がはしく、諸方を探り翔(かけ)り 歩き行き、無為に居る事少なくて苦労なり。然れば何になりても苦労は遁れざ る事と見えたり」と云ひし故に、一人が云ひけらくは、「山人は諸越(もろこし) の仙と同じ趣物のと聞こゆれば、仙人と同じ様に安閑無為にして、神通自在を もて身の楽しみとして在るべき物と覚ゆるに、何とて然ばかり鬧(さわ)がはし く事多きぞ」 寅吉云はく、「山人といふ物は、神通自在にて山々に住する事は、諸越の仙人と同じ趣なれど、安閑無為には居らざる物なり。其の訳は、まづ神の御上より申すべし。師言にすべて神といふ物は、既に神と崇められては、世の為(ため)、人の為となる事は、何事にても恵み賜はらでは、叶はざる由ある故に、千日祈りて験(しるし)なきは万日祈りて験あり、万日祈りて験なきは生涯も祈らむと云ふ様に祈願すれば、たとへ邪なる願ひにても、一旦は験を与へ給ふ。況(ま)して正道なる祈願は、能く信心を徹しだにすれば、叶はずと云ふ事なきものとぞ。然れど人間の願ふ事ども、道理に叶へる祈りと思へるも、神の方より見れば、多くは邪の願ひなる故に、後に我知らず、それ程の罰を受くる事なり。況して道理に違へる事と知りつゝ願ふ事は、遂に天道より永久の罰を降し給ふとぞ。偖(さて)山々に神のおはし座さざる山は無く、また山人の居らざる山も無きが、其の山によりて秋葉山、石(岩)間山などの如く、世間にても山人ある事を知りて、天狗と称し祈り崇むるは云ふに及ばず、山人ある事を知らず、ただ其の山に鎮座し給ふ神に祈りても、其の山に住む山人、その祈願を遂げさする事なり。然るは我が師の本山は浅間山なれど、世間の人は、かつて師の名をだに知らざる故に、祈願ある時はただ浅間神社に祈る。然れども其の願ひをば師の聞き受けて、神に祈りて遂げさする類ひなり。夫故(それゆえ)に象頭山の御神の如く時めき給ふ神の、鬧がはしく御座(おわ)します事申すも更なり。彼の山には山人天狗ことに多かれど、手の回らざる故に、諸国の山々より、山人天狗かはるがはる行きて山周りするなり。其の上にも猶手回らず事多き時、また人間の祈願さまざまなる故に、其の山々にて祈願を遂げしめ難き難事(なんじ)も多かり。然るをりは他山の山人たちに此の祈願を遂げさせむ事は、如何にせば宜(よ)からむと探ぬるを、我が師にまれ誰にまれ、まづ聞き受けて自分に能はざる事は、また他の山人に付託する故に、難儀なる事は、先より先へ云ひ送りて、本(もと)の出所を失ふ事も有り。しか云ひ送る間に其の事に得たるが有れば、次々に本へ送りて祈願を遂げさするとぞ。山々より互ひに巻物を廻らして、名を署(かか)しむる事も此の故にて、此は山々の山人今ごろ自分の山に在りや、他山にありやと云ふ事を改め置きて、某々得手なる事を付託し合はむが為なり。それ故にこの巻物には、他山にて称する名は署(しる)さず、実名を記す定まりなり。此の故に山人の事多く鬧がはしき事云ふも更なり。一事につきて数百里を、数度空行往来する事もあり。常に何処より何(いか)なる事の付託あらむも知るべからねば、世に有る程の事は、何によらず知り弁へて心にたもち、用ある時を待ちて在る故に、事を博く知りたるほど、処々よりの付託は多かれど、自然に位は高くなる。我が師は四千歳に近き人にて、知りたる事の多き故に、山人の多かる中にも多用に鬧がはしきなり。常に苦行するも、ますます霊妙自在を得て、人間の為(ため)をせむとてなり。然れば山人と云ふ物は人間よりは苦労多し。是れをもて人間は楽な物ぞと常に羨まるゝなり」 ○問ふて云はく、「山周りと云へば各々其の山々に行きて見周り守護する事か と思ふに、然も聞こえず。委しく其の由を語り聞かせよ」 寅吉云はく、「山周りと云ふは、我が山にばかりは居ず、彼(あ)の山此(こ)の山と、代る代る互ひに周り往きて持つ故に云ふ言なり。去年極月三日より、この正月三日まで寒三十日、師の象頭山に居られしも、山周りなり。彼の山は右に云ふごとく、事多きが上に、寒中は祈願の人多く、殊に諸願を果し給ふ時なれば、毎年寒中には諸国の山々より大勢の山人往き集まりて助けを為すなり。山人のみならず、鳥獣の化(うつ)れる天狗までも集まりて助けをいたす。金毘羅様は山人天狗すべての長の如く座しませば、然する定めなり。然れど他の山々と違ひ、毎年の寒中ばかりにて、常には山周りに行く人なし。また金毘羅様は他山の山人の如く、本山を出でて他山を周り給ふ事もなし。我が知りて師の周られたる山々は、象頭山、烏山、妙義山、筑波山、岩間山、大山などなり。大山に居られし時は常昭と称せられたり。其は大山の山人の長を常昭と云ひて僧形なるが、かつて人の通はざる杉山といふ深山に庵を結びて住み、他山の山周りに行かれしほど、師は其の庵に住みて其の名を称せられしなり。何れの山に行きても各々互ひに本よりの名は称せず、其の山の山人の名を称する例なればなり。其の後岩間山に住みては、杉山僧正と称せらる。杉山の称号は大山の杉山といふを用ひらる。僧正といふは岩間山の山人の名か、其は知らず。双岳と云ふ号(な)は唐土(もろこし)の山に住まれし時の名を用ひらるゝとぞ。偖また師の金毘羅様に往かるゝに就きて説あり。そは、まづ師の手に従ふ山人は、古呂明、左司馬をも入れて十一人有るが、師も共にかぞへて十二人のうち、毎年鬮(くじ)取りにて六人づつ金毘羅へ行くなり。然るに寒三十日は山人の大切なる行の時にて、一年の寒行を勤むれば位の進む事なるに、讃岐へ行きては、一年むだに成る故に誰しの人も、いやがりて替りを頼みなど為るを、師の鬮に当られたる時は、かつて替りを出ださるゝ事なく、古呂明、左司馬を連れて、外に三人と共に行かるゝなり。其は師も寒中の行は為らるれども、行の積みて有る故に、下なる人の行をむだにせしめて、我が行をせむとは為られざるなり。師の鬮に当らざる時は、古呂明、左司馬など鬮に当りても替りを遣(や)りて行かず。其は此の二人は常に師の左右に居らでは弁じ難き事の多かればなり」 ○問ふて云はく、「前には師に随従の人は、古呂明と左司馬と二人なりといひ、 常にも此の二人より外の人の事は云はざるに、師に従ふ山人は古呂明、左司馬 をも入れて十一人ありと云ふ事心得がたし。古呂明、左司馬の外に九人の名は 何と云ふぞ。常に師に付き従ひて在るか」 寅吉云はく、「その九人の人々は常に師に附きては居らず。各々某々に小さき山々を分け持ちて居り、神事その外に多人数なくて叶はざる時、または師の講釈の時、或は金毘羅立ちの鬮取りの時などのみ寄り集まるのみにて、常に逢はざる人々なる故に、名も知らず語り出づる程の事も無きなり」 ○問ふて云はく、「大山の常昭山人は、僧形なりと云ふこと心得がたし。其の 故は新宿なる藤屋荘兵衛が許へ来たりて逗留して、下総の三社(神号)を書きた りしは、黒髪長く生え下がりて山伏の如くなりしと云へり」 寅吉云はく、「そは右申す如く、他山より助けに行きたる人の、常昭と名乗れる時に行ひたるなるべし。真の常昭山人は正しく僧形なり。彼の三社の神号の手風も真の常昭に非ざれば、決はめて常昭名乗れる余人なり。彼の山人の書は我正しく覚えて見まがふ事なし。また真の常昭山人は、左様に軽々しく人間の家に逗留などする人には非ず」 ○問ふて云はく、「僧形と云へば常に剃髪して在るを云ふか」 寅吉云はく、「彼の界(さかい)にて僧形と云ふは、此方の僧の如く頭を奇麗に剃りて在ると云ふには非ず。頭の肌の見ゆるほどに剃りたるは嫌ひて、大かた一年に三度ばかり剃りて、栗のいがの如くなるを僧形と云ふ。それ故に剃りたてのうちは、引籠り居て髪の二分ばかりにも延びたる頃より出づるなり」 ○問ふて云はく、「此より□の方に当りて夜の国とて云々の国有りと云ふ。然 る所に至れる事はなきか」 寅吉云はく、「其はホツクのヂウの国と云ふ国なるべし。夏の頃行きたり。日の大きさ拳ほどに見えて寒かりしかど、雪はなく薄闇く八分も欠けたる日蝕の時はかくもやと思はれ、日はちらちらと竪に動きつゝ西に没(い)ると見え、夜は甚だ長く覚えたれど、月の見えぬ頃なりし故、月の様子は知らず。地に幾筋も溝川を掘りて有りしなり。此の国は日の見えざる時も有る故に、水の光りを仮る為なりとぞ。五穀も相応に成る国と見えて、麦を刈りて有りき。また稲も出来ると見えて藁の道間に有りしをも見たり。木も草もあり。人の状は大かた痩枯れて、丈高く、頭小さく、鼻高く、口大きく、手足の母指二本づつ有りき。衣服は何やらむ心づかず。家は無く穴に住む趣に見えたり。然れど日久しくは居ず。此れより女嶋へ渡りたる故に委しくは知らず」 ○問ふて云はく、「女嶋は此より何れの方に有る国にて、其の国の有様はいか にありしぞ」 寅吉云はく、「女嶋は日本より海上四百里ばかり東方に有り。家は作らず。山の横腹に穴を掘り、入口を窄(せま)く中を広くしつらひ、入口の所を纔(わず)かに木を渡して昆布を葺きて雨を防ぐ。日本の女に替はる事なし。髪はくるくると巻きて束ねたり。衣物は海はばきの如き物の和(ゆる)やかなるが、海に有るを採りて筒袖の如く組み織りたるを着て、着物ながらに海に入りて魚をとり昆布を採りて食ふ。海より上りて身を振るへば、着物の水みな散り落つるなり。此は火には然しも傷まざる物なりといふ。此の国の昆布は茎の太さ人の股ほども有るべし。そを二つに裂けば中にぬらぬらとしたる水あるを採りて煎じつめて蕨餅の如くして食ふ事も有り。さて女ばかりの国故に、男を欲しがり、もし漂着する男あれば皆々打ち寄りて食ふよしなり。懐妊するには、笹葉を束ねたるを各々手に持ちて西の方に向かひ拝し、女同士互ひに夫婦の如く抱き逢ひて妊(はら)む由なり。但し大抵其の時は定まりありとぞ。此の国に十日ばかりも隠れ居て様子を見たりしなり」 ○問ふて云はく、「この外に珍しき国に行きたる事は無きか」 寅吉云はく、「猶知らぬ方の国々へも多く行きたれど、見物とはなく、ただ師の用事を調へに行かるゝに附きて往きたるにて、其の国々に至りても人の住まざる野山、または海川などにて用を調へられたる事多き故に、其の国の状までを知らざるが多く、今思へば夢を見し心地なる事多し。ただ其の中に珍しく思へる国あり。此には十日余りも居られし故に少しは覚えたり。男女ともに顔は然まで尋常の人に異(かわ)りなきが、言語は訣(わか)らねどキヤンキヤンといふて犬の声に似て、家ごとに犬を多く養ひ置きて常の食とし、服物には生きたる犬の腹を裂きて、其の生皮を全剥(まるはぎ)に剥ぎて生なるに、その四足の所へ手足を入れて腹の裂きたる所を縫ひ合せて着ながらに干し、髪を被り居たり。国中の者その如くなる故に、犬の立ちて歩き行く様に見ゆ。白犬赤犬など各々多く養ひて、赤犬の皮きもの幾枚、白犬の皮きもの幾枚持ちたるなど様に、多く持ちたるを身上よしとす。其の首領にも犬を貢物とす。首領とても犬の皮着物なり。また犬の大きさにて犬に非ず馬の様にも見ゆる獣を養ひ置きて、魚鳥などを取らしむ。此の国の人、海に落ち入りても死する事無けれど、夫(生き)ながらに海中の物と変るとぞ。多く見たる国々の中に、此の国ほど穢らはしく覚えたる国は無きなり。然れど国の名も知らず、此より何方にあたると云ふことをも弁へざれば、書き留むる事は用捨し給ふべし」 ○問ふて云はく、「師に伴はれて行きたる国々にて、象、虎、獅子などの類ひ、 何ぞ此の国に無き獣を見たる事は無きか」 寅吉云はく、「象も虎も見たる事なし。獅子をば見たるが、此方にて画く如き物には非ず。*尨犬(むくいぬ)の大きなるが如きいときたなき物にて有りしなり。其の国は天竺といふ国の近き所なる由なり」(*尨=原文には、けもの偏「犭」+「農」の字が用いてあります。) ○門人どもに、古史なる伊邪那美命(いざなみのみこと)の水の神に、瓢(ひさご)を 持ちて火の神の荒(すさ)びを鎮めよと誨(おし)へ給へる段を説き聞かせ、因に 瓢の酒に功能ある由を説けるを寅吉も聞き居て、「宜(むべ)しこそ山にても瓠 (ひさご)に酒を入れ、また盃にも椀にも作る、猩々も瓠にて酒を呑むと見ゆ」と 云ひし故に、傍らなる人うち笑ひ「猩々の酒を飲む事を見たる事ありしか」と 問へば、 寅吉云はく、「外国には非ず、此の国の何処なるか知らねど、海に遠からぬ山の谷合に、猩々の甕なりとて石の穂に、譬へば禹余粮壺(うよりょうつぼ)の如く、自然に成りたる甕有りて、其の中に自然の酒の、なみなみと沸き出て有りしを見たり。人々も飲む故に、我も飲みたるに誠の酒よりは薄けれど、香りもあり酔ふ事も異なる事無かりき。甕に蓋をして瓠を盃の如く作り、糸尻に藤蔓を付けたるが蓋の上に添へて有りしなり。猩々といふ物は能く人の真似をする物故に、人間の盃を真似たるなりと師は言はれたり。但し其の酒は飲みたる所を去れば直に醒むるものなり。日本の内には違ひなけれど何国なりしか問はず。さて瓠といふ物は酒を入れて久しく置けど香りを損なはず。凡て薬を入れ置きてよき物なりとぞ。麝香(じゃこう)の類ひ香りの高き物、此れに入るれば香りの散失せずと聞きたり。盃また椀などに作りては、中を漆にて塗る事なり」 ○問ふて云はく、「岩間山の天狗の事を、彼の辺の知りたる人々に尋ぬるに、 いと旧くは五天狗と云ひしが、次々に祭り加へて十二天狗と称し、後に又長楽 寺が加はりて、其の首領と成れるより十三天狗と称する由なり。誠に然りや」 寅吉云はく、「旧き事は知らねども、彼の山の天狗を世に十三天狗と称すれど、十三人の山人あるに非ず。人の亡霊の成りたると、現身の成りたると、合せて四人ばかりに、鷲、鳶また獣などの化(うつ)りたるが多し。其の内人形(ひとがた)なるは長楽寺ばかりなり。長楽寺が首領と成れる由は、十二天狗の徒が長楽寺を引入れて手下にせむと為たるが、長楽寺は其の頃の岩間の別当の知りたる人にて、異なる霊威もありし故に、殊更に敬ひて第一と崇めしかば、長楽寺元より剛強なる人なれば、十二天狗をおし伏せて、其の首領と成りたるとぞ。凡て人ならぬ物の化りたる天狗は、言語も通ひ自在の業は為れど、然すがに甚だ愚なる物故に、おし伏せられしなり。長楽寺は三十歳余りと見ゆる山伏姿の人なり。偖師は彼の山に居らるれば、長楽寺を始め何れも其の命を聞く事なり」 ○問ふて云はく、「神前に時々の花を奉る事は無きか」 寅吉云はく、「時々の花をも、見事なるは活けて奉り、又いつも稲の苗を活けて奉る。穂の有る時は猶更の事なり。もし稲苗の無き時は、神事のある前に早く種を植付けて、六七寸にも生え延びたるを、揃へ束ねて根を切り、青くふさやかなるを奉るなり。また新米なき時に新米に擬して奉る米あり。其の製法は右の如く植付けたる苗の青きを苞に作りて、其の中に米を入れて五七日も蒸しおけば、稲葉の色香のうつりて、新米の如くに成るを奉る。此は飯に炊きても新米のかほりする物なり」 ○或日人々と種々の物語りの序に、中村乗高の集めたる奇談の書に、或人の女 の鉄を食ふ病を煩ひたる由を語りけるを聞きて、 寅吉云はく、「鉄の出づる山に生ずる奇(あや)しき物あり。生(な)り始めは山蟻の大きさにて、虫といふべき状なるが、鉄ばかりを食ふ。始め小なる時は鉄砂を食ひ、大きく成るに従ひて釘、針、火箸何にても鉄物を食ひて育つ物なり。形は図の如く毛は針金の如し。師の此れを畜(やしな)ひ置きて試みられたるに、夥(おびただ)しく鉄を食ひ馬ほどに成りて身より自然に火出でて焼け死にたりとぞ。名は何と云ふか知らず。此を麒麟なりと云ふ人もあれど、いかが有らむ。偖また此れにつきて思ひ出でたり。猿は年久しく立ちては、すさまじく大きく成りて立ちあるき、頭に長き髪を生じ、眼は殊の外に光り、自在の術を得て、さて数千年経ては身より自らに火を出して、今迄の体みな焼くるとぞ。然(さ)すれば其の体内より別に人と然しも異(かわ)り無く毛もなき体の出づるが、をりをりまた猿の身に成りて群猿と交はり居るなり。此は師のかゝる物の変化も見置けとて、焼けたる体内より、人形(ひとがた)して生まれ出でたるを見せられたり。此をもぬけといふとぞ」 鉄を食ふ物の図 ○問ふて云はく、「師の寝らるゝに、夜具をも着らるゝか。其の儘に寝らるゝ か」 寅吉云はく、「夜着も布団も枕も有りて、緩やかに十日も廿日も高鼾にて寝らるゝなり」 ○問ふて云はく、「夜着布団は何にて作るぞ。此方のと異(かわ)りは無きか」 寅吉云はく、「婆(ばあ)が懐(ふところ)の織物を二重にして、薄(すすき)の穂をこき、夥しく入れて緘付(とじつ)けたる夜着ふとむなり。形はさしも此方のに異りなし」 ○問ふて云はく、「枕は何をもて如何なる形に作りたる物ぞ。もし菰(こも)に て作れる枕は無きか」 寅吉云はく、「枕は麻の綴り枕にて、中に入れたる物は何やらむ、ガサガサと音して藁の様に思はれたり。頭の病を煩はざる藥になる物とぞ。菰ならむも知るべからず」 ○問ふて云はく、「婆(ばあ)が懐(ふところ)と云ふは何なる物ぞ」 寅吉云はく、「山にも野にもある藁草にて、茎葉をむしるに、乳の如き白汁の出づる草にて、小なる白花咲く。実は蕃椒(とうがらし)を四つばかり合せたるが如し。その実秋に成れば割れて、其の中より木綿の如き物出づるを婆がふところと云ふなり」 ○問ふて云はく、「婆が懐を如何にして服物になる如く為るぞ」 寅吉云はく、「大帛の糸の太きを、五六尺づつに切りて、竹に弓弦の如く張り、麻糸または木綿糸にても太く紾(よ)り合せ、糊をひきて婆が懐のよくうち揉(なら)したるを、したゝかに紾りつけ、干して此方の夏襦袢の如く、こよりにて作れる甚だ細かに図の如く組みたる物なり」
○問ふて云はく、「師の久しく持ち伝へて、大切に為らるゝ着物は何を以て、 いか様に織り縫ひたる物ぞ。また名を何といふぞ」 寅吉云はく、「名は何と云ふか知らず。麻にも絹にも非ず。藤の木の皮に似たる何やらむ木の、譬へばアンペラの柔らかなるが如き、厚き単(ひとえ)を製して織りたる物にて、色は黄をおびて白し。織り目は筋違ひに見ゆ。背に縫ひ目なく一巾を折返して裁ち合せ、前を裁ちさき、かます縫ひに為て、図の如き襟をつけ、牡丹(ぼたん)にて合せ、広袖にて上には白き絹さなだの如き糸にて、図の如く縫ひ、下は黄と緑との太糸にてぬひ、其の末を垂らしたり。さて腰にあたる所の左右に図の如く尖り出でたる物あり。此は身を放ち難き物を入れ置く所にて、此を袂といふ。服物の多かる中に別に此を大切にして、容易には着られず。此を着る時の帯は紫の丸ぐけを締めらる。着たる状図を見て知るべし」 ○問ふて云はく、「師は僧衣を着し、或ひは山伏姿など為らるゝ事は無きか」 寅吉云はく、「師も大山、岩間山などに居て、其の山の事を為らるゝ時は、緋衣を着せらる。但し世間の衣は元よりひだをとりて仕立つれど、彼方のは着てひだをとる。地はモジ(綟)の様なる物なり。妙義山の山周りせられし時のみ、山伏の装束せられたり。装束は然(さ)しも異(かわ)りなきが、頭巾は此の世の山伏のよりは、したゝか大きなりき」 ○問ふて云はく、「師は座禅静坐などして、印を結び咒文を唱へらるゝ事な どは無きか」 寅吉云はく、「座禅静坐などいふわざを殊に為らるゝ事は無けれど、重き考へなどの有る時には、坐をくみて目を閉ぢナイの印を結び、何やらむ唱(とな)へ言(ごと)して考へらるゝ事はをりをりあり」 ○三月節句の日の前日に、「明日は山にても節句の祭あり」と云ふ故に、 「その祭の有り状はいかに」と問ひしかば、 寅吉云はく、「三月節句は、いざなぎいざなみ神の祭なり。神壇を例の如く構へて、二神の霊代(たましろ)の幣(ぬさ)をたて、種々の供物も例の如し。唯常の供物と異なるは、あさつきと片貝の酢味噌あへと、榊の葉に醴(あまざけ)を付けて奉るとなり」 ○問ふて云はく、「醴の造り方はいかに。榊の葉に付くるとは如何なる状に つくるぞ。紙雛または藁人形などを作りて、川原に流す事などは無きか。ま た桃の花を供へ、又は桃酒を進むる事などは無きか」 寅吉云はく、「醴の造り方は、飯を甚(いと)こわく炊きて熱き間に糀を合せ、気(いき)の漏れざる様に蓋を為し置けば、飯の熱さにて糀はやわらかになる。其を挽臼にてひきて神前に立奉る。榊の葉ごとに付けて供ふるなり。紙雛、藁人形、桃花の酒などの事はなし」 ○国友能当(くにともよしまさ)問ふて云はく、「或人に頼まれたり。甚(いた)く 雷鳴るを恐るゝ人にて、雷鳴の前に早く其の気ざしを知りて、頭痛眩ひなど して臥し、雷の甚だしき時は気絶する事も、をりをりあり。此を恐れざる為 方(しかた)はなきか」 寅吉云はく、「其はなるたけ高山の上に穴を掘り、其の中に一夜入り居て、後に中なる赤土を一つかみほど取りて、何にても古木の活根を切り、土と共に紙に包みて蓄はへ置き、雷鳴の時に臍の上にあてゝ、心をおちつけ居れば動ぜぬ物とぞ。此は雷鳴の時用ふるのみならず、至りて高き所に昇る時、または馬、駕、舟に乗る時も臍上にあつれば、眩暈(めまい)する事なし。また気違ひを癒(いや)すにも暫く右の如き穴住居をさすれば、能く癒(なお)る物ぞと聞きたり」 ○同人また問ふて云はく、「信州松代の辺は、年々疫痢行はれて人を害なふ 事甚だ多し。此の災を祓ふ法は有るまじきかと、或人の問ふなり。いかに為 方は有るまじきか」 寅吉云はく、「師には其を除(さ)る法の有るべきも知らねど、我は知らず。唯受けざる法はあり。其は鰌(どじょう)を生きたる儘に背を篦(へら)にて撫づれば、ぬらつき多く出づるを取りて、白砂糖を交へ冷水にて夜の明け方に夜々用ひ、また鰌の黒焼きを日々に用ふれば、痢病を煩はず。また煩ひ付きたる人も此を用ふれば能く治する物とぞ」 ○また問ふて云はく、「子なき婦人の懐妊する法は無きか。此も或人の頼みなり」 寅吉云はく、「神社にても川原にても、奇麗なる石を一つ拾ひ置きて、毎日に朝日に向かひ其の石を持ちて額にさゝげ、天道に子を授け給へと白(もう)して祈り、懐妊して後に石をふやして彼の石を採りたる所に納め、彼の石をば生まれたる子の、生涯の守りとする時は無難に育つ物ぞと聞きたり」 ○また問ふて云はく、「深山または里にても、悪鬼、妖魔、猛獣などの害を 為すを除(さ)る咒術などは有るまじきか、と或人の問ひなり。いかが有るべ きか」 寅吉云はく、「咒術も有るべけれど未だ習はず。守り札を認(したた)むる法は習ひたり。此は猥(みだ)りに伝へがたき法なるが、此の先生に伝へて我自ら木に彫りたり。奇しき事または狼などの類ひ、悪獣に出逢ひたる時、又は山などにて雲霧起りて難儀の時に、其の札を散らし、獣などの如く眼に見ゆる物には其の札を与ふる時は、決して災難に逢はざる物なり」 ○同人また問ふて云はく、「或人の頼みなり。金毘羅、秋葉、道了など其の 外山人にも祈願を掛けるに、仏経を誦(ず)して宜かるべきか。何ぞ外に咒文 の類ひにても有るか」 寅吉云はく、「僧山伏のわざを見習ひて、俗家の人々誰も仏経を誦し、祓ひ詞といふ物などを唱へずては感応も無き如く思ひ居れど、実は然らず。直に祈願の筋を有りの儘に丁寧に繰返し申す時は、感応ある事なり。仏経、咒文、祓ひ詞などには拘はらず、祈願の信心だにとどけば、何を申しても感応あるなり。此の意をもて神に祈願すべき物ぞと師の言なり」 ○問ふて云はく、「予幼くて秋田に在りしほど、或木こりの来て我が父に物 語の序に云ふを聞けば、三人の連れと藤倉山の奥にて、木をこ(樵)り暮れ相 に成りて帰らむと為ける時に、其処よりは北の深山の大空に稲光の如き火、 ちらちらと見えけるが、其の火と共に何とも知れぬ木の枝の如き物見えて、 赤き青き花びらの夥(おびただ)しく散りける故に、いと奇しと立留りて見るに 日暮るゝと頓(やが)て月の現はれ出でたり。見る内に怪しく気味悪くなりて (るに)伴ひ逃げ帰れり。何にて有りけむと語るを聞きたる事あり。山にて斯 (か)かる物を見たる事は無きか」 寅吉云はく、「そは山人たちの遊びにする、ホロユといふ物を見たるなるべし」 ○問ふて云はく、「そのホロユと云ふ物は何(いか)なる物ぞ、知りたらば委 しく語り聞かせよ」 寅吉云はく、「此は竹を削りて図の如く作り、目の詰りたる麻布を以てふくらみの有る様に張り、図の如く仕掛けの物を付けて、端なる一処に火縄を付けて、次々に火の移るべく仕掛け、紙鳶(たこ)の如く糸を付けて吹上げさせ、立木に結び付け、遠くより見て楽しむなり。種々の物を数多く出だすことは各々工夫に依るなり。昼のは五色の雲花または雨降りなどの仕掛けをなし、夜のは花火、電光、月などを現はす様に仕掛けたる物なり」 (引用者注:文庫に、図なし。) ○問ふて云はく、「月を出す仕掛けはいかに為たる物ぞ」 寅吉云はく、「硝子を丸く二重に作りて、間に水を入れ、下に蠟燭を箱に立てたるを図の如く付けて、火縄の火次々に移りて蠟燭に移るべく作りたる物なり。硝子を二重に為て水を入れたるに、下なる火映じて真の月の如く見え、十町ばかり先の空に上げたるに、手の筋の見ゆる程に光る物なり。戯れ事にてこのホロユほど面白き事は無し」 (引用者注:文庫に、図なし。) ○「騰雲が物語に、『天狗の食類は松の葉、竹の葉その外木の葉を食す。ま た折々魚を取りて肉ばかり食し、猿の子をも取りて焼きて食す。深山などに 天狗火と云ふ有るは此の時の火なり。其の跡小笹の類ひ焦げてある物なり。 此は真の火なる故に、人の目にも見ゆるなり。狐火は真の火に非ざる故に焦 げる事なし』と云へるよし、かゝる物を食ふ事も有りや」 寅吉云はく、「松の葉、竹の葉その外の木の葉を食する事もあれど、常の食に非ず。たまたま塩と等分に漬けて食ふ事も有り。何に依らず塩と等分に漬けて食はれざる物なしとぞ。魚鳥は食へども猿などを食ふ事は決して無き事なり。凡て獣を食するは神の悪(きら)ひ給ふは元よりも上に、山は獣の持ち場なるに、山に居つゝ獣を食ふと云ふ事は有るまじき事と聞きたり。然れど此は我が山の事にこそあれ、騰雲は金毘羅方の人とあれば、我が知らざる所なり」 ○問ふて云はく、「騰雲が物語に、金銀米銭は人の力を労して人界の宝に作 れる物故に、金銀は云ふに及ばず、米一粒たりとも食に用ひずと云へるよし、 此は如何有らむ」 寅吉云はく、「金銀銭をも用ふこと、右に云ふが如し。米を食ふ事は云ふも更なり。然れど金毘羅方はいかが有らむ知らず」 ○問ふて云はく、「魚鳥は如何にして取るぞ」 寅吉云はく、「魚鳥をとるには、篠竹を一尺ばかりに切りたるに、鉄の鏃(やじり)を付けてねらひ定めて、投げづきに突きて取るなり。「豆鉄炮にて鳥を取る」鳥を、ハガ(擌)にて取ることもあり。山伏の法に魚鳥を取るに、神とも神と奉り念ずれば動く事能はざるを、「東山こうきの上の桃の木にのぼりて見れば水となる、おりて結むでアビラウンケンソハカ」と唱へて、九字を切れば手捕りになると云へども、此は然しもきかざる咒禁なり。さて鳥は何にても人間にて鶏を料理する如く、丸ながらに皮をむきて身ばかりを採り、塩焼きにして食ふ。また雉子などを多く取り置きて、塩を付けて干物となし、焼きて食ひも為るなり。山人の食は鳥が第一なり。能く身体を軽く揚ぐればなり。我ある時三十日ほど鳥ばかり食ひたる事有りしに、身体まことに軽く、飛びも上がるべく覚えたりき。殊に鳥のみ食らふ人は命長しと云ふ」 ○問ふて云はく、「世俗に兎は獣の部に非ず、鳥の部なりとて高貴の人々も 食し給ふ。山人はいかに兎を食ふか」 寅吉云はく、「余(ほか)の獣はかつて食せざれど、兎は山にても鳥の部なりとて食ふなり。殊に彼の物の頭上に人に甚だ薬と成る肉有り。其は殊に大切に食らふ事なり」 ○河野大助問ふて云はく、「二十五六歳の男なるが、瘡毒を煩ひて大抵癒え たるが、咳出て止みがたく、衆医いろいろに治療を施せども治せず。何ぞ薬 は有るまじきか」 寅吉云はく、「其は生松葉を刻み、焦色に炒りて、芥(からし)の葉と等分に煎じ用ふべし。総て咳には妙にきく物なり」 ○また問ふて云はく、「ある婦人消渇(しょうかち)「文銭とトウシミを煎じ用ひて心下 痞硬(ひこう)に妙なり」といふ病にて痛苦堪へがたく、衆医手を尽せども治せず。 此れにも何ぞ薬は有るまじきか」 寅吉云はく、「塩六匁を四匁に焼きへらし、水一合入れて五勺に煎じつめ、又二合入れて一合に煮つめ、一度に飲み、暫くある内に痛む心地あり。其の時に明礬十匁に水六合入れ四合に煎じつめて飲むべし。痳病消渇に大妙薬なり。また梅の木と松の木とに生えたる忍草といふ物を煎じ用ふるも、妙に痳病消渇を癒す物なり。(もし梅の木の忍草無き時は、其の苔にてもよろし。)」 ○予常に著述の事に用多きに合せて、人の来る事繁く、日々に「日も年も短 し」と常に云ふを聞きて、 寅吉云はく、「それ甚(いと)よき事にて、長命の相なり。然るは師の言(ことば)に、我は二年を送るに常人の一日を送る間に短く覚ゆ。其は我が寿命の長き故なり。虫鳥は命短く、中にも蜉蝣などいふ虫は、朝に生じて夕に死すれど、命短しとは思はず。これ短命に定まりたる故なり。命長く世に功を立つる人ほど、年月を短く覚ゆ。これ事の成就するしるしなり。仮令(たとえ)ば五十歳にて死ぬるとも、其は其の人は知らねど、四十くらゐにても死ぬべきを持ち前よりは生き延びたるなり。何に付けても世に功を立つるが、命を延ばす法なりとぞ」 ○此の説誠に然も有るべし。そは彼の仙境に行きて碁を見たる樵夫(きこり) の、多年を一日の如く思へるは、命長き仙境に就きたる故なり。かの槐安国 に至れる人の、一時を多年の如く思へるは、命短き虫の境に至れる故なり。 此の理りを能く思へば、命長き人ほど年月を短く覚ゆると云ふこと、実に然 も有るべし。 また予幼きより、肉少なく、人の肥え太りたるが羨ましくて、肉づくべき食 物など及ぶ限りは物すれど、少しも其の効(ため)し無き事を常に歎くを聞き て、 寅吉云はく、「肉の少なきが身も軽く、思慮神明に通じ、長命する相なりと師の常言にて、肉づかぬ様の食物を用意して用ひ、もし肉増さりたるかと思ふ時は、痩せる薬を飲み、酢を飲まるゝ事もあり。然れば肉の少なきを歎き給ふべからず」 ○また予鼻毛の長く外へ出るが煩しくて、傍らに毛抜きを置きて折々抜きと るを見て、「鼻毛は抜きとるべき物に非ず」と云ふ故に、其の由を問へば、 寅吉云はく、「鼻毛の長く生え出づるは長命の相なれば、必ず抜くべき物に非ずと師説なり。師の鼻毛は甚だ長く、中にも髭と混じふばかりに長きが、二穴より五六本づつ生え出でて有るを、甚だ大切に為らるゝなり。偖(さて)鼻息にて寿命の長短を知ることあり」 ○問ふて云はく、「師は信州浅間山に住して、彼の山の神に仕へ奉らるゝが、 彼の山に鎮座まし座(ま)す神の、御名をば何と申すか、聞かざりしか」 寅吉云はく、「師は彼の山に住して守護せらるれば、彼の神に仕へ奉らるゝ謂(いわ)れなり。鎮座まします神の御名は聞かざれど、姫神にて富士山の神の御姉神に座(ましま)せど、御同体とも拝すると云ふ事は聞きたり」 ○高橋安左衛門正雄、傍らに居て問ふて云はく、「浅間山の常に火燃ゆるは 如何なる由ぞ。神の御怒りにて然るか。其の由を聞かざりしか」 寅吉云はく、「燃ゆる事は、彼の山に硫黄の多く有る故にて、焼ければ焼けるほど硫黄は多く出で来たる物ぞとなり」 ○問ふて云はく、「師は外国の旅より帰られし時、また穢れに触れたる時な ど、禊祓(みそぎはら)ひの神事を為らるゝ事は無きか。また汝など此方へ来て 居たるが帰れる時に、人間(じんかん)にて受け入れたる火を浄むるわざ、また 禊などさする事は無きか」 寅吉云はく、「禊祓ひの神事といふては無けれども、穢悪(けがれ)に触れられし時は、川に着物を流し、また鼠尾草(みそはぎ)にて図の如く硝子の玉を付けて作れる物を持ちて、日向の御柱と幾度も唱へて、身を払はるゝ事あり。また瀉水(水の字をかくこと)の法を行ふ時にも、それに水を含めて用ひらるゝなり。「常の祓ひ物には笹に神馬草と塩なり」また竹の枝にて図の如く作り、赤き絹糸にて編みて籠の如くなし、中に神馬草と、何やらむ明礬に似たる物を入れたる有り。神に供ふる水は、此をもて攪きまはして奉る。よく水を清(す)まし浄むる物なり」 |
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