■平田篤胤「仙境異聞」(4)

赤絹糸にて編む 水を清ます物の図
赤絹糸にて編む水を清ます物の図 
○問ふて云はく、「正月元日に神事、また祝事、門松立つる事などは無きか」
寅吉云はく、「大晦日より元日へかけて、其の時の食物を供じて、年の神を祭り、門松と云ふは無けれど、山に生ひ立ちたる松の木に食物にても何にても、供物を奉り拝し祈る事あり」 
○問ふて云はく、「山人たちも盃事して祝ふ事も有りや」
寅吉云はく、「他山の事は知らず、我が山にては師を始め随従の人々も決して酒を呑む事なし。酒は人の心を蕩
(とろ)かして行ひを損なふ物なりと師の常に示さるゝなり。然れど正月二日には酒宴あり。「瓠に酒を入れまた瓠を盃また膳などに作る」皆集まりて土器に酒をつぎ昆布を肴に為て少しづつ飲む事なり。さて此の時弓の射初め蟇目(ひきめ)の舞ありて各々舞ふなり」
○問ふて云はく、「五月の節句の祝はいかに、菖蒲などを用ひざるか。又幟に
似たる事はなきか」
寅吉云はく、「五月の節句は、天王祭とて須佐之男命
(すさのおのみこと)を祭る。此は悪魔除けなりとぞ。供物は常に異(かわ)る事なし。さて此の日必ず剣改めと云ふ事あり。其は拵ひを皆とり外して、磨きをする事なり」
○問ふて云はく、「蟇目の舞の時に、如何様なる装束する事ぞ。また弓矢は、
いか様なるを用ふるぞ」
寅吉云はく、「色は萌黄、また花色にても何にても、モジ
(綟)の様なる肩衣の如くにて、なほ肩広く袖なき物を着し、蠏目霰(かにめあられ)(地)の括(くく)り袴を着し、木にて作れる図の如き物を冠る。弓は桑木のまゝ木弓にて、萩の矢に羽は雉子の羽を三羽はきて、二の手を左の腰にさして、式をなしつゝ舞ひ、四角に向かひエイヤアエイヤアエイヤアと、高く声をかけて射放つなり」
冠り物の図
冠り物の図               
○国友能当問ふて云はく、「或人の付託なり。中風、撈瘵
(ろうさい)、嗝噎
(かくえつ)、癩病など云ふ病どもは、医書にも不治の症なりと云ふを、いか
で治する薬は有るまじきかとの事なりいかが」
寅吉云はく、「中風には梅の木の茸を黒焼きにして用ひ、撈瘵には守宮
(やもり)を雌雄別に黒焼きに為て、当人にそれと知らせず、何にても入れて用ふべし。嗝噎には鶴の活き肝よろしく、癩病をば綿に焼酎をしめし、火を付けて燃やしつゝ幾度もたゝく時は治するとぞ」
○或人問ふて云はく、「痛風にて苦しむ人あり。何ぞ治法は有るまじきか。
焼処
(やけど)または痔の薬、血止めの方は知らざるか」
寅吉云はく、「梅の木の平苔を黒焼きにして、飯糊にてねり、貼りてよろし。焼処には冷飯と杉の若葉をすり交へて、度々貼れば、薬に熱を吸ひとりて痛みは忽ちに去り、跡もつかず癒る物なり。痔には海辺にうち寄する藻くずを干して、黒焼きにして用ふ。血止めは熊野ぼくちが宜しきなり。さて此れに就きて思ひ出でたり。山より下りる時に、うす黒く丸き小石を一箇もらひ来たれるが、此を手に握れば何様
(いかよう)に多く出づる血にても、忽ちに止まりしが、何処にか置き失ひたり。今思へば惜しき事なり」
○また或人問ふて云はく、「我多年疝癪に苦しむ。疝気また癪の薬は知らざる
か」
寅吉云はく、「疝気には、またゝびの粉と橙
(だいだい)の黒焼きとを等分に合せて夥しく用ふべし。癪には寒烏を屎壺に三十日漬け置きて洗ひ、腹わた取らず黒焼きにして、赤螺(にな)の貝を焼き粉にして等分に合せ用ふべし。溜飲その外腹病一切によろし」「癪を癒すエレキテルの如き物」「カキドウシ(垣通)草は癪を治す」 
○また或人問ふて云はく、「流行眼病
(はやりめやまい)、逆上眼(ぎゃくじょうめ)
風眼
(ふうがん)、血目(ちめ)など云ふ眼病には何を用ひて宜からむ」     
寅吉云はく、「平たき真石の小さきを拾ひて、
「赤土の(効)能のこと」表裡(おもてうら)に虎目とかき、火に焼きて水に入れ、程よく冷して目ぶちにあてゝ度々蒸す時は大抵の眼は癒るものなり」
○また或人問ふて云はく、「何ぞ常に蓄へ置きて能き膏薬は無きか」
寅吉云はく、「山にある膏薬は、杉の葉、甘草、青木の葉を胡麻油にて煎じ、黒くなれる時に滓を去り、丹と白蠟とを入れて煮つめ、宜しからむと思ふ時、少しばかり水にたらし見れば、程よく堅まる時に、冷して腫物にも何にも用ふるなり。甚だ調法なる膏薬なり。偖また鉛を薄くうち延ばして、酢にて二時ばかりも煮たるを、名も知れぬ腫物に貼りて絞
(しば)り置けば、散るべきは散り、ついえべきはついえて速やかに治るものなり」
○また或人問ふて云はく、「咽
(のど)にとげの立ちたる時は、いかによき呪禁
はなきか。舌の腫れたるは如何すべき」
寅吉云はく、「古歌にの字の[                                                           ]舌の腫れたるには、うなこうじの黒焼きを足の裏に貼りて、よく癒るものなり」
○或人の物語に「某の山里にて、女の一人昼寝して居けるに、陰門に蛇這入
(は
い)
りて出でず、遂に死にたる」よしを語りけるに、
寅吉云はく、「蛇の陰門、肛門などに入りて出でざるに、鉄漿一合に酒五勺入れて煮たてゝ飲ますべし。速やかに蛇出づる物なり。また蛇に妊ませられたるにも妙なりとぞ。蛇の喰ひ付きたるにも飲みて宜し。真虫
(蝮)のくひつきたるは、串柿を付けて宜し。真虫の歯は細くて針の如くなるが、食ひつかれては肉に歯のかけ入りてある故に害をなすを、串柿を付ければ其の歯を吸ひ出すなり。真虫は串柿を付けても死する物なり。彼の虫には甚(いた)く毒となると見えたり」
○また或人問ふて云はく、「犬に食ひ付かれたるに、速やかに治する薬は無き
か」
寅吉云はく、「其は上々の挽茶と焼き明礬と等分に合せ、水にて飲めば速やかに治すると聞きたり」
○国友能当問ふて云はく、「或人の頼みなり。道を多く歩き行く法は無きか」
寅吉云はく、「師は其の法を知り給ふべけれど、我は知らず。遠き道を数日歩き行きて疲れざる妙薬の法は、近ごろ或人に習ひたり。大黄
(だいおう)、細辛(さいしん)、烏頭(うず)の細末を等分に合せ、鹿の油にて煉り、足の裡(うら)に塗れば労(つか)るゝ事なしとぞ」
○問ふて云はく、「……」
寅吉云はく、「松の葉、桃の葉、南天の葉、石菖
(せきしょう)の根、てうてう草、芥(からし)の葉その外何にても、草を二十七品ほど取りて刻み、炒りて麻布の袋に入れて、酒にて黒くなるほど煮出し、……」
○或日田河利器など数人来合ひて、寅吉に「和ぬしが此方に来居りては、山に
てさぞ師の不自由に思はるゝならむ」と云へば、
寅吉云はく、「師は人の大勢なくて叶はざる時は、幾人にても分身せらるゝ故に、我一人居ずとて不自由なることなし」
○と云ふ故に、「如何にして分身せらるゝ」と問へば、
寅吉云はく、「分身せらるゝには、いつも下唇の下なる髭を抜きて、思ふ処に置き、咒文を唱へらるゝに、幾人にても師と同じ状なるが出来るなり。其の咒文は何と言はるゝか知らず」
○土屋清道が言ふに、「猿また鼠などを捕へて殺さむと為るに、合掌して詫
びる状なるは、仏道の世に行はるゝ事、既に二千歳に近き故に、いつとなく、
彼の道風の礼を獣まで真似ぶと見ゆ。然れば容易に此の道の休まる時は来た
らじ」と云ふにぞ、予言ひけらくは、「其は獣らが仏法ざまの礼を学びたる
には非ず。天竺の合掌の礼ぞ。却りて獣を学びて立てたる礼なるべし。其は
唐土籍
(からぶみ)にも云々といふ説あり」と言ひしを聞きて、
寅吉云はく、「合掌して拝の状をなすこと、猿、鼠ばかりに非ず。山にて、熊の立ちて朝日に向かひ、合掌して拝する状をなして居たるを見たる事度々ありき」
○中村乗□言ひけらく、「遠州□□郡□□村に□□□といふ者ありしが、其の
若かりし時いと無頼にて、名主を詈りたりし尤
(とがめ)にて、処を逐はれしか
ば、何思ひけむ其れより深山に入りて、世人と交はらず、五年ばかりは出でざ
りしが、或とき着物を欲しき由にて里に出でたる故に、人々『いかにして深山
に数年居たる』と問へば、『今は獣らと仲よく交はりて、食物をもうけ、鐺
(な
べ)も無けれど飯を炊く事を知り、何も不自由と思ふ事も無し』と語りて、其の
後も三年に一度ほどは、里に出づるが、やゝ仙人と云ふ物の状になりたり」と
語りしかば、
寅吉云はく、「仙人と云ふ物の状になるには、別に仙骨といふ骨なくては成りがたきには非ず。誰人にても深山に三十年も住む時は、始めの程こそ獣らも厭ひ逃れど、遂には、なれてまづ種々の食を持ち来て養ひ、後には奇術を得たる鳥獣なども使はれて、いつとなく仙人と成らるゝ物ぞと師に聞きたり。鐺なくて飯を炊くなどは然しも珍しき事に非ず。堅き石山を鐺の如く掘りて、山うるしを塗り、其の下の横に竈処
(かまど)の如く穴を掘りて火を焚けば、何にても煮らるゝ物なり」  
○又或日人々うち寄りて種々物語の序に、「某を作るには云々
(しかじか)し、
某を作るには云々す」など語りけるを聞きて、
寅吉云はく、「穿山甲
(せんざんこう)の末(こな)と、小麦の粉と合せて池に入るれば、多くの鮒を生じ、又麦のふすまを泥中に埋め置けば、鰌生ずると云ふことなり。また饂飩(うどん)の粉を煉りて、鮒の形に作り、穿山の毛と肉の粉を塗りて、古池に埋め置けば、鮒となるとぞ。偖また穿山甲と云ふ物は鯉の化(うつ)りたるが本にて、子をも生ずる物なり」
○と云ふ故に人々笑ひて「其は心得がたき事なり。彼の物は唐物にて此の国に
は無き物ぞ」と云へば、 
寅吉云はく、「此の国にも有りて、本は鯉の化りたる物なること、我正しく度々見たり。其は鯉は誰も知る如く滝に上る物なるが、其を竜と成りて天上すなど云ふは誠しからず。千山鯉といふに化ることは、彼の魚は滝を上る勢気にて山に撥ね上がり、草原にころころとして居るが、日数経ては丸き形となり、四の鰭四足となりて甲を生じ、鱗の間より毛を生じて図の如く化りて這ひあるき、山の水溜りにすみて子を産するに、それ穿山
(せんざん)なり。元は鯉の化りたる物ゆゑに、殺して肉腸を見れば、鯉の肉腸と同じ様に胆も鯉の如し。唐土にのみ生ずる物と思ふは甚(いと)狹き見識なり」
千山鯉の図 
千山鯉の図        
○また蟇
(がま)の背を抱へて子を産む咄を聞きて、
寅吉云はく、「蚯
(みみず)は切りて埋め置けば二本になる。疵を付ければ玉くら蚯となる。田螺(たにし)は殻を出て子をうむ。入りそこなへば死するなり」
○問ふて云はく、「服物の前は世に為る如く、左を上に合さるゝか。又は右を
上に合さるゝか」
寅吉云はく、「常には世間の人の如く、左を上に合さるれど、神事の時は必ず
(右を)上に合さるゝなり」
○倉橋勝尚ぬし来られて、河図洛書
(かとらくしょ)と云ふ物の図を書きて寅吉に
(み)せられ、「此は天地間の真理を包尽したる物なり。定めて山人の此をや
ごとなき物にするならむと思ふを、見知りたるか」と問はるれば、寅吉よく見
て「山にて此を見たる事なし」と云ひしかば、倉橋ぬし案の外なる事に思はれ
たる状にて、「汝いまだ年の少
(わか)き故に、此の真理を伝へられざるならむ」
と云ひて、其れより予と周易の事の物語せられ、「我多年易学に志して、諸家
の註をも悉く見たるが、彼の真理を看得たる説は一つだに有ることなし。誠に
彼の書は天地間のあらゆる道理を網羅して、木火土金水の五行を自由にするを
始め、所謂法術の本も、みな此の書に尽きたり。天下を顚
(くつがえ)す陰謀、ま
た忍術盗賊の秘術も此れに依りては得られざる事なし。それ故に我常に易を講
ずる人は、決はめて易を知らざる人なり。易の真理を看得ては、決して顕
(あら
わ)
に講じ難き書なり。我その真理を見得て、既に註数巻を書きたり」と言は
  るゝ故に、予其の言に就きて易の事の、かねて思ふ旨をも述べたりしかば、寅
吉傍らに聞き居て、「師の易道を教へられざる趣意を、今こそ思ひ知りたり」
と云ふ故に、其の由を問ひしかば、
寅吉云はく、「我がかゝる身の上と成りし元の由を云へば、易卜を知りたく思へりしが縁にて、彼の異人の言に、『易卜を知りたくば我と共に行くべし』と云ひし故に、伴はれて山に行きたりしなり。然るに師は他の種々の事どもを教へて、易卜は教へず。折々『易卜を知りたき物ぞ』と願ひしかど、『卜は総て疑ひを決むる料の物ゆゑに、易卜ならずとも、何の卜にても宜し。彼の易は余り宜からぬ物なれば、余の卜法を教ふべし』とて、種々卜方を教へられ、『易卜の宜からぬ由は後に知り弁ふ時あるべし』と言はれたりしが、今の御物語にて師の此の卜を教へられざるは、其の由と云ふ事を弁へたり」
○倉橋氏問ふて云はく、「異人に誘
(さそ)はれたる或人の物語に、鷺、河童
(かっぱ)などに取らるゝ人は、何か取らるゝ因縁ある由聞きたり。然る説は
聞かざりしか」
寅吉云はく、「鷲、河童などに取らるゝ人は、両方の肩に青く光りて丸き玉の如く動く物あり。此の物身内に久しく有れば、悪病を生ずるよし聞きたり」
○或人問ふて云はく、「三十歳ばかりの男なるが、幼少の時より二十ごろま
で、癲癇の病を持ち、其の頃までいと聡明なりしが、医療祈祷をもして其の
病は癒えたるが、後に健忘の症の如くなりて、世事に通ぜず。然れど折々聡
明なる言語所行もありて、全く痴と成れりとは思はれず。聊
(いささ)かも色
情なし。此を癒す法は有るまじきか」
寅吉云はく、「そは癲癇の変じて、然る症と成れるなれば、癲癇の療治にて宜し。其は硝子を天眼鏡の如く二重にして、間に紅をときたる水を入れ、日向
(ひなた)に出でて其の人の体を照らし見れば、硝子の赤き光のうつる中に、大抵は肩より腰、または腕のあたりに色変りて毒の凝りたる所見える物なり。其の毒ある所の形に墨にて輪を付け置きて、其の墨形の状に、銅を以て深さ二寸ばかりの物を拵(こしら)へ、其を押しあてゝ、好き焼酎を忍(た)へらるゝだけ熱く沸かし、つぎ入れて冷えたる時に布にひたし、取りて又つぎ替へ、斯くの如くさいさいすれば、其の膚赤く漆かぶれの如く成りて、悪水出づるなり。斯く幾度もする時は、漸々に毒出で尽きて癒る物なり」
○問ふて云はく、「鷲に取られざれば、悪病と成る。青き玉を取り捨つる為
(し)かたは無きか」
寅吉云はく、「師は其の病根を取る法を知られたる由なるが、我はいまだ知らず」
○問ふて云はく、「外国にて×の如き物、又は人を磔
(はりつけ)にかけたる図、
或は婦人の小児を抱きたる図などを奉り崇むる国は無かりしか」
寅吉云はく、「何処ならむ、いと寒き所にて見事なる筒袖の服物を着たる国に一寸行きたりし時、其処の人々然る類ひの本尊を各々もち斎
(いつ)きて有りき。師は然る物を見るごとに、唾をしかけらるゝ故に其の由を問ひしかば、『此は切支丹と云ふ邪法の本尊なり。日本にては堅く禁制の事故に、唾をしかけたるなり』と言はれき」
○問ふて云はく、「天狐を使ふ法はいかに」
寅吉云はく、「天狐を下ろし使ふには何に依らず、うまき食物を夥しく用意して、山に入り天狐に手向けて祈り念ずれば、まづ始めに早
(隼)人といふもの下りて、種々の恐ろしき奇特を現はすを、」
○倉橋氏の物語に、「近き頃の事なるが或武家の若侍、ふと異僧に誘
(さそ)
れて国々こゝかしこを見周りたるが帰り来て語りけらく、『江戸の芝なる愛宕
(あたご)山に至りて、宮の辺を見周りけるに、宮の後ろにて異相なる武士の、
侍を五六人ばかり連れたるが行逢ひて、伴ひたる異僧と互ひに久しく逢はざり
し由の挨拶終りて後に、彼の武士云ひけらくは、「貴僧もかねて知られたる、
我が多年の鬱憤も今こそ晴らすべき時節至れり。共に悦び給はれ」と云ひしか
ば、異僧聞きて「何をもて時節の至れると宣ふぞ」と云ひしかば、彼の武士の
云はく、「我が恨むる家にて、此れまで或寺より護持僧を請じて神仏を祈り、
我が祟りを受けじと為せし故に、鬱憤を晴らし難かりしが、今度かの寺より出
だしたる護持僧は、五体不具にて祈りに験
(しるし)なし。我其の虚に乗りて仇
を為さむと思ふなり」と云ひしかば、異僧聞き畢りて、「実に尤もなる御遺恨
には候へども、既に多くの歳霜を経たる事なれば、然る罪深き恨みを止めて、
安らかに静まり給へ」と諌めけるに、彼の武士面色を変じて、「我が臣として
我が家を亡ぼしたる恨み、片時も忘れ難し。如何ぞ報ひずて有るべき」といふ
を、異僧しきりに諌むれど聞き入れず、後には互ひに角目
(かどめ)だちて別れ
ける故に、「彼の武士はいかなる人にて候ぞ」と問ひしかば、「彼は竜造寺隆
景と云ふ人なり」と答へき。さて「彼の家の大事なれば、見捨てがたし」とて、
直ちに其の寺に行きて案内して取次ぎの僧に、「何某殿の験者に五体不具の僧
を遣はしたること以ての外なる事なり。早く替りを遣はすべきよし申せ」と云
ひて、帰らむと為るに、取次ぎの僧驚きて、「貴僧の名はいかに」と問ひしか
  ど、「此の事だに云へば名はいふに及ばず」と、袖をはらひて立ち去りし』と
云へり。かく古き人の、今も在りと云ふこと心得がたし。実なるべきか」と云
はるゝに、予も傍らより、「浜町なる云々」と云ひしかば、
寅吉云はく、「然る古き人の、今も生きたる如くにて、幽世
(かくりよ)に夥しく居る事いふも更なり。其は我は其の人々を知らざれども、師語に『日光の御神も将軍様の御先祖なるが、今も其の儘おはし坐し、其の外義経、為朝云々』と云はれたり」
○また問はれけるは「それにつき、又或人の異人に誘
(さそ)はれて東海道を行き
けるに、肥田豊後守、長崎の任みちて帰るに行逢ひたり。例の如く御朱印の入
りたる長持ちをば先にかゝせて、路人を下に下にと制しつゝ来るを見て、人み
な下に居たるが、ただ突居
(つくばい)たるのみにて頭を土に付けるまでには無
かりしを、彼の異人は土にひたと居
(すわ)りて、頭を土にさし入るゝばかり
(かしこ)まりし故に、伴はれたる男あやしみて、『異人は人間の方よりはか
つて見えざる身の上なるに、何とて彼の長持ちに、しか切に礼を致さるゝぞ』
と問ひしかば、『将軍家の御朱印は、禁裡の御璽も同様の事なり。然ればいか
にも尊敬せでは叶はざる事なるに、現世には此の道を弁へたる人すくなし。能
々心得よ』と誨しけるとぞ。実に彼の界
(さかい)の教へは然りや」と問はれし
かば、
寅吉形を改めて云はく、「彼の界にも然る掟を守らざる有れど、我が師の交はる人々は誠に其の人の物語の如く、天子、将軍を敬ふ事、人間の神を尊敬するに似たり。師語に『将軍は万国を鎮め押さへて、天下の人を恵み治め給ふ御職なる故に、神々は元より人の為に世を守り給はでは叶はざる由あれば、御崇敬あるに従ひて、ますます神威を益して世を守り給ひ、山人は神と人との中に立ちて、神の御事を行ふもの故に、天下を治め給ふ君をば、大切に守護せでは叶はざる由なり』と聞きたり。其は種々の物の成りたる、謂ゆる天狗と云へども、正道に就きたるは右の如し。それ故に俗にも日光山には数万の天狗といひて、山人天狗夥しく居て、其の山を守るは云ふに及ばず、他の山なる山人天狗も、彼の山を見周りて守護す。此は師に正しく聞きたるには非ざれど、世の始めの神たちは、各々某々に持ち前の事を持ち分けて鎮まり坐しまし、世間の御世話は金毘羅様がなされ、天下の事をば日光山の御神の掌り給ふ様に思はるゝなり。天下に変事あらむとすれば、山人天狗いづれも苦行をなし、天道神明に祈りを為し、また非常の事ある時は云ふに及ばず、常にも禁廷また江戸の御城へは、日光よりも他の山よりも守護にまはり、正月元日と春秋の彼岸に、京の愛宕山より芝の愛宕山へ一人づつ遣はされ、また江戸に火災ある時は、東叡山なる俗に天狗の休み所といふ二本杉へ、日光より二人づつ来たりて火をしめ
(湿)す咒術を行ふ。すべて火災は神祇の各々異なる御心々に思(おぼ)し召す旨ありて、山人天狗の各々某々に、其の御旨を得て焼かるゝなれば、互ひに我が知らざる火はしめし難きも有れど、また互ひに我が事ならぬ火はしめさむと為る事かくの如し。是の故に彼の境なる人々、各々其の位のほどほどに天下を治め給ふ君を敬ふ事、実にその異僧に伴はれし侍の云へるが如し。此れに就きて物語あり。其は我或人にならひて世の山伏等がする縄ときとて、両手を背に違ひ合せてしばりたるを、古歌を吟じて抜取る法を知れるが、近頃或家にて戯れに、人々に結ばせて解きけるに、或人我に偽りて、『己れは天下の罪人を縛る役に仕ふる身なれ。我が結びたる縄をば解くこと叶はじ』とて、結びたるに、我実の事に思ひしかば、彼の古歌を吟じたれど遂に解きかねたり。其は天下の罪人を縛る役人なりと云へる故なり。日比(ひごろ)、師の天下様を恐るべき由を教へられたるが、心にしみて在りし故に、彼の古歌の咒もきかざりしなり」
○倉橋氏この物語を聞きて、はたと手を打ちて、久能の縁起に云々、
○国友能当問ふて云はく、「或人の頼みに、『彼の境に種々の武器、武術など
有るを思へば、山人は武備をも幸ひ給ふ事と見ゆ。然れば海辺に杉山々人の宮を
設けて、異国襲来の守護神に祭らば、いかに有らむ』との問ひなり。此はいか
が有らむ」
寅吉云はく、「彼の境にては人の祈り祈らざるに拘はらず世間を守護する故に、外国などの犯しある時に、其を退くる防ぎの為に、武器、武術、軍法までも精究してあり。然れど師は今まで世に名を知らせず。下山の時にも其の人を得るまでは、謾
(みだ)りに我が居所、実名をも云ふこと勿れと、堅く誡められたれば、祈り祭りの事も、我よりは何とも云ひ難し」
○浅野世寛
「本所長崎町々医」が物語に、「天狗甚右衛門を伴ひて、或格式高き某て
ふ寺の某和尚と云ふに逢はしめたるに、甚右衛門その和尚を見て、甚
(いた)
おぢ畏まりて、席に進むこと能はず。和尚見て『斟酌なく席に就かれよ』と云
ひしかど、『我は妖魔の部属なれば、いかで正法の和尚に近づく事を得侍らむ』
と云ひて、彼の界の事を語るまでも無く、鼠の逃げるが如く帰れる」よし語るを
聞きて、
寅吉笑ひて云はく、「その甚右衛門といふが事
(つか)ふる師は在世の時に仏者なるが、彼の三熱の苦など有りて、常に在世中に仏道の真意を守らず、『天狗道に堕落したり』など歎き云ふを聞きて、元より愚昧の性質に、仏道をいと尊き物に心得たる者ゆゑに、左様に恐れしならむ」
○此の時予世寛に、寅吉が事ふる師の、甚く仏道を悪
(きら)ふ事どもを語り聞
かせければ、世寛云はく、「然るに平児代答に杉山僧正は撫付けにて、常に咒
文を唱へ印を結び坐を組み居られ、また西に向かひて、西方牟尼半仏と唱ふる
よし見え、また木剣を見れば、仏法にて用ふ所と相似たり。また九字を切るも
世の修験者の為る態なるは、いかに」と云ふを聞きも果さず、少
(いささ)か憤
れる面持ちにて、
寅吉云はく、「仏道は宜しからざる道と云ふ事は、師の常に示さるゝ故に、属き従ふ我々も深くは弁へざれど、師説のまにまに然る事と知りて嫌ふなり。坐を組み印を結び咒文を唱ふと聞きては、仏法ざまに聞こゆれども、其は山崎ぬしの宅にて人々うち寄り、『師は僧形なるか髪あるか』と問ふ故に、『髪は長く後ろに下げてあり』と云ひしかば、撫付けと記し、『座禅静坐などせらるゝか』と問はれし故に、『座禅静坐などいふ事はかつて為ず』と云ひしかど、『静かに平坐して印を結ぶ事は無きか』と問ふ故に、『考へ事などの有る時に、手を此くの如くして腹にあて、平坐して目をとぢ、何やらむ唱へつゝ考へる事もあり。しか腹に手をあてゝ在る事をナイの印とも云ふ』と、其の事を座禅の状に書かれしなり。此れのみならず『緋の衣を着るか』と問はれし故に、『衣の如く袖長き服物を着る事も有り』と云ひしを、常に緋の衣を着すると記されたり。我は服の名を知らざる故に、衣の如く長き袖の服物と云ひしが、今思へば水干の様なる物なり。また『師の名は何と云ふぞ』と問ひし故に、『そうしやうと云ふ』と答へしかば、『字は何に書く』と云ふ故に、『慥かには覚えざれど、上に書く字は仙境異聞(上)二之巻文字のごとく、下に書く字は正月の正の字なり』と云ひしかば、『下に正の字をかけば、上なる字は必ず僧の字にて、そうじやうならむ』と云はるゝ故に、『そうじやうには非ず、そうしやうと清みて唱ふ』と、返す返す云ひしかど、『僧正の字に違ひなし』と、押してしか書かれし故に、心善からずは思ひしかど、是非なくさて有りしなり。代答にはかゝる類ひなほ多かり。かゝる事を思へば、平児代答は世に何ばかり写し伝ふらむ、何卒みな火に焼かれよかしと思ふを、此の先生の、『其の事は己が筆記に弁ふべし』と言はるゝ故に少か安心して在るなり。偖また木剣を仏道より取れる如く思へども、此は師に聞きたる説あり。『まづ剣といふ物、此の国には神世より有りし物にて、剣をもて咒
(まじな)ふ術は元より有りしが、真剣にては差支へある故に、木に作りたるが、外国までも伝はり、後に種々附会をなし、日本にて世間に木剣の咒禁を用ひたるは、役行者(えんのぎょうじゃ)が始めにて、其れより山伏に伝はれるを、真言宗また日蓮宗までも、思ひ思ひに何くれと書付けて用ふる事となり、また九字の事は、誠は剣カイと云ふわざにて、此はもと神代の剣法より出でたるにて、切る状を為すには、何の事もなく一(ひい)(ふう)(みい)四五六七八九(この)と云ひ、十字を切るには十(とお)といふが本なるを、臨兵云々は後に付けたる唱へ言なり』と、師に聞きたり。然れば木剣九字切るわざ、共に元これ神世の遺法なるを、修験者などの用ふるは、返りて神の道を真似ぶなるをや」
○倉橋氏の印相の事を問はるゝに、「印の結び形は六七十も知りたり」とて、
悉く其の形をなして見せければ、倉橋氏返す返す賛歎して、印相の尊きよしを
言はれけるに、
寅吉云はく、「印相といふ物は、実は座禅観相など為るに、手の治め形なき故に各々、思ひ思ひに種々の形を為たるが始めにて、其れより種々の理屈を後に付けたる物にて、実は何の益にも立たざるわざなり。然れども世には尊き物に心得たるが多ければ、覚え居て時宜に応じて用ふべしと師の教へなり」
○我が元より知らぬ人なるが、或大医の相会
(紹介)人もなくてつかつか卬然
(ごうぜん)と来たりて、予に相(あ)はむと云ふに、出で相へば、寅吉に相ひた
きよしを強ひて請ふ故に、其の間は猥りに人に相はせざりし間なれど、止む事
を得ず相はしめたるに、其の医世の清潔ぶりする俗のまにまに、清潔なる物語
して、まづ寿夭の事を問ふ。「其は言はざる掟なり」と云ひしかば、また「我
が大願あり。成るや成らずや」と問ふ。寅吉聞きて「いかなる願ひにや」と問
へば、「我は金銀を多く持ちたき抔
(など)いふ卑しき心は一点もなし。唯大
門戸をはりて、身の上も昇進し、財宝思ふが如く集ひて、十分に遣ひ、人にも
施して、寿を長く病難もなき様にと、常に弁財天、聖天などを信仰して、日々
の祭を闕くこと無し。いかに此の大願叶ふべきや」と言ひしかば、寅吉少か卜
ひ考ふる状して、「御信心次第にて叶ひ侍るべし」と云ふに、医は甚く悦びて
帰りぬ。後にて予寅吉に、「彼の医の願望甚だ大きなり。誠に叶ふべきか」と
問ひしかば、
寅吉笑ひて云はく、「あの様なる卜ひ考へは然しも骨をりて考ふる心は無ければ、成る成らずも深くは考へず。実は出ほうだいに申し侍り。然るは彼の医師言ふには、『欲心は少かも無し』と清げに云はれしかど、『財宝を十分に得て十分に使ひ、人に施すばかりに在りたき』と言はる。我は斯くばかりの欲心は非じと思ふを、彼の医は欲心と知らず。偖その欲心より弁天や聖天などを祭るよし、尤も信仰だに厚からば、験も有るべきなれども、遂には神罰に逢ふ事を知らず。俗人の大願々々と云ふが、大抵は此のくらゐの事に侍る故に、神達の然こそ困らせ給ふ事にて侍るべし。実の大願ならば、彼の人は医者のこと故に、『何ぞ神界によき療法あるべし。我は医の事なれば、如何なる難病にても我が手にて癒えずといふ病なしと云ふ様に、療法を知りて天下の病苦ある人を救ひ、其の法を世に弘く伝へて、天下の衆医にも知らしめ、普く世に医術を以て功をたて、死して後も人の病苦を救ふ神と成らむと思ふ願ひは、いかに叶ふべきか』抔云ふ問ひならむには、骨をりて卜ひ考へ、聞き持ちたる療法薬方の事を語りも為べきを、いと可笑しき事なり」
右の医師の事、後に聞けば、多く財宝を集へ持ちたる人なるが、独り飽かずま
に種々の手段をして金を集むる人とぞ。
○或人の仏法好きと見ゆるが、相会
(紹介)人を頼みて来たり。寅吉に相ひて小
ざかしく物言ひけるが、神境にも武器あると云ふ物語を聞きて、「神境に何の
用ありて武器あるにや」と尋ぬるに、「例の如く幽界には妖魔の類夥しく、正
道を妨げむと為る故に其を防ぎ、また遂には人界に及ぼして国用にもせむ為に
有る」由を云ひしかば、其の人難じて「天地間の正理は、人界仙界の隔てなく、
善悪不二、邪正一如の旨に洩るゝ事なし。然るに妖魔夥しく其れと軍
(いくさ)
するなどは有るまじき事なり」と云ひしかば、寅吉予に、「善悪不二、邪正一
如とは如何なる意ぞ」と問ふ故に、其の意を云ひ聞かすれば、うち笑ひて席を
立ちて、次の間に入りて再び出でざる故に、予も次に立ちて、「何とて席へは
出でざるぞ」と問ひしかば、
寅吉云はく、「彼は仏者の道知らずなり。善悪不二、邪正一如と云ふは仏経の語なるべければ、悟り頰
(顔)の空言なり。善悪邪正が無き物ならば、世に決断所も入(要)らず、世々に軍(いくさ)も無き筈なれど、善悪邪正がある故に、決断所もあり、軍もあるなり。既に仏経にも、帝釈と魔王と合戦すると云ふこともあり。『釈迦に提婆(だいば)といふ敵も有りし』と師に聞きたり。さて此れに就きて左司馬が常に云ふ言に、『釈迦に提婆、太子に守屋(もりや)といふが、実は提婆に釈迦、守屋に太子と云ひ替へるがよし』と云へり。然もあるにや。彼の様なる仏者には、真の事を何云ふても耳に入らぬ物なれば、口をきくが否(嫌)なる故に再び出でざるなり」
○「笏の形に木を削りて欲しき物ぞ」と云ふ故、「何の用あるぞ」と問へば、
寅吉云はく、「彼の境にては、深き考へをする時は、常の如く持ち、あごをかけ居て考ふる故に、此方にても然
(しか)為たらむには、よき考への出で来たりなむかと思へばなり」  
笏図 
笏          
○爰に予の弟子なる下総国神崎社の神主、神崎光武に請蔵したる彼の社の神木
なる俗にナンジヤモンジヤと云ふ木を出だして、「此の木を知りたるか。此れ
にて作らばいかに有らむ」と云へば、例の如く香りをかぎて、
寅吉云はく、「此は神崎社のナンジヤモンジヤの木なるべし。此は樟の木の種類の老木なる由、師に聞きたり。いかにも香りは樟の木の甚だしき香りなれば、煎じ出だしたらむには樟脳夥しく出づべし」
○予が常に用ふ代赭石
(たいしゃせき)の墨を見て、「此は何の墨ぞ」と問ふ故に、
 「代赭石といふ物を以て製
(つく)れるなり」と云へば、「朱また丹などは何より
  出づるならむ」と問ふ。「朱は水銀をもて製し、丹は鉛を焼きて製する物ぞ」と
云ひしかば、「或薬種屋の言に水銀は漆を焼きて取る物のよし聞きたり」とい
ふ故に、「其は薬種屋が朱塗りの古器を火に焼きて、水銀を取るを見て、水銀
は漆より出づる物と思へるならむ。右に云ふ如く、朱はもと水銀を製せる物ゆ
ゑに、朱塗りの物は何によらず瓦に入れて焼けば底に水銀溜るなり。また軽粉
といふ物も水銀を焼きて製れる物なり」など猶水銀を種々に用ふ道を語り聞か
せたるに甚く悦びて、此の時「焰硝
(えんしょう)はいかなる所に成るを如何にし
て製し、雄
(硫)(ゆおう)は如何にして取り、金銀銅鉄の荒金はいかにして製
し、硝子は某
(なに)と某(なに)とを合せて、いかにして製する物ぞ」など云ふ
に、人々驚きて「然る事どもは如何にして知りたる」と問ふに、笑ひて答へざ
るを、強ひて問ふに、
寅吉云はく、「凡てかゝる事どもは、左司馬などに伴はれて、直ちに其の物を製する所に至りて、傍らに居て見たりしなり。然れども製する人は、我々が傍らに居て其の物どもを手に取りても見るを更に知らず。いと可笑しき事なり」
○問ふて云はく、「蟇目の弓矢は、いか様に製れる弓矢ぞ」
寅吉云はく、「弓は桑の木のほどよき枝を切りて、其の儘に苧縄
(おなわ)の絃をかく。矢は萩に雉子の羽をはぎたるを二手腰にさして、四隅に射るなり。此は凡て魔除けの弓なり。摩利支天の法を行へば、目前の空中に、其の紋ちらちらと現はるゝを、此の弓にて二矢射れば、紋われて消え失(さ)る物なり。さて弓は此方のと同じ弓多かるが、木の枝を其の儘に用ふる事も多し。また鯨弓もあり。太くて大きなり。また鉄弓もあり」
○或時人々うち寄りて、古歌に験ありて、咒禁にきく由を語り合ひけるに、
寅吉云はく、「百人一首なる人丸の歌を、修験者などが色々に用ひて咒禁を為す。我が試みたるは両手を人に縛らせて、『ほのぼのとまこと明石の神ならば、今こそゆるせ人丸の歌』と唱ふるに、結びとくる物なり。また火を止むるに、『ほのぼのとまこと明石の神ならば、今こそ止めよ人丸の歌』と唱ふるに、火災にも、焼処
(やけど)にもきく物なり」
○屋代翁、小嶋氏、予と三人、寅吉を同道して山田大円がり行きけるに、あろ
(主)淤蘭陀(オランダ)より渡れる、オルゴオルと云ふ物を出して見せらる。
其は図の如き筥
(はこ)の中に、丸木にひしと針金を打ちたるを二本渡したり。
外なる肘金を廻せば針金を打ちたる二本の丸木きしり合ひて、カリカリと鳴る
を、それに連れて幾多の笛、ひやうひやうと互ひに異なる音を出すべく拵へた
る物なり。笛は底に有れど、音は誰が耳にも、いと上に聞こゆれば、「笛はい
づこに有らむ」と皆不審
(いぶか)しみけるに、寅吉ひとり「笛は底に有るべし」
と云ふにぞ、大円子「実に然り」とて筥をかへして底を見せけるに、笛は底の
外に十二本並べてぞ付きたりける。寅吉よく見て、「我が山にも此の器に似た
る物あり」と云ふ故に、大円子「そはいか様に製れる物ぞ」と問へば、
寅吉云はく、
〔此処原本一頁空白〕
○また此の日山田氏に集へる人々多かる中に、臼井玄仲といふ医の来たり居て
云へるは、「我は信濃国の産なるが、筑摩郡小見宿なる神明宮の神主、寺田某
と云ふ人の甥喜惣治といふ者、我も知れる者なるが、十六七歳の時に、ふと家
を出でて帰らず。いかに尋ぬれども行方を知れざりしが、七年すぎて後の一日、
衣服も何も家を出でたりし時の儘にて帰り来たれり。人々奇しみて『何処に居
たりし』と問へば、『今は真田領なる日知山に居る山人
「大姥権現」の使者と成り
たるが、一度は実家に帰る例なる故に、しばし帰り来たれるなり』と云ひて、
彼方の事を問へども言はず。止
(とど)むれども止まらず、即時に出で去れり。
此は今より十五年前の事なり。山人とはいかなる物ならむ」と寅吉に問ひしか
ば、
寅吉云はく、「山人といふに種々の別あれど、まづは俗に云ふ天狗の事と心得をりて宜しきなり」
○こゝに予、この答へたる趣の心に止まりて、委しく問はむと思ひしかど、集
へる人も多ければ、纔かに懐紙に其の事を記し帰りて、翌日閑静なるをりを見
合せ、「前にしばしば山人と云ふ称は無きかと問ひしかど、然は云はずと答へ
き。然れど決はめて山人と云ひてあるべき物と思ひて、先頃山に帰る時に汝に
書きて贈れる歌にも、押
(推)して山人と詠みたりしなり。然るに昨日玄仲に答
へたる語に、山人と云ふに種々の別ある由いへること、耳に止まれり。いかで
委しく語り聞かせよ」と切に問へば、
寅吉云はく、「此の事、前にしばしば問ひ給へれど、然は称せずと云へるは、下山の時師の誡めに、『暫く俗に云ふ儘に天狗と称して、山人など云ふことは、明かすこと勿れ』と禁
(いまし)められし故なり。然るに今度また山に帰りて、先生の我に賜へる歌を出し切に此の事を問ひ給ふ由を云ひしかば、『苦しからず明かし聞かせよ』と許されし故に、折もあらば申さむと思へる間に、昨日玄仲の問はれし故に、ふと申し出でたるなり。今は師の許しなれば、いかでか包まむ。山人と云ひ天狗といふ由を委しく語り申すべし。まづ山人と云ふは、此の世に生まれたる人の、何ぞ由ありて山に入り世に出でざれども、自然に山中の物をもて、衣食の用を弁ずる事を覚え、禽獣を友として居れば、最初の間は獣類も此を恐るれども、後にはなれ近づきて、食をさへに運び与ふ。三十年ばかりも山に居れば、誰も成らるゝ物にて、安閑無事に木石の如く長生す。これ真の山人なり。また深山に自然に生ずる物あり。其は異形さまざまなれど、まづは人の状に近き故に、此れをも山人と云ふ。然れど此は魑魅の類ひとも云ふべし。さて我が師の如きも、山に住む故に山人とは称すれども、真は生きたる神にて仏法なき以前より、現身のまゝ世に存し、神通自在にして、神道を行ひ、其の住する山に崇むる神社を守護して、其の神の功徳を施し、或は其の住する山の神とも崇められて、世人を恵み、数百千万歳の寿を保ちて、人界の事に鬧(さわ)がはしく、かつて安閑無事には居ざる物なり。また仏法渡れる後に現身のまゝ世を遁れて、仏を崇むる山に住み、其の崇むる仏の功徳を行ふ山人も多し。此れも自在の態ありて長生なり。また現身を蛻(もぬけ)の如く捨て化(うつ)れるは殊に夥しく有り。此れまた霊妙なる事元よりなり。但し仏道信仰の者の化れるに、現身ながら化れるにも、現身を捨てたるにも、正と邪とあり。然るは世の限り邪道を信ずと云へども、幽界に入りて始めて其の道の妄なる事を悟り、正道に帰する心を生じて世人を利益す、これ正なり。また幽界に入りてなほ悟らず迷へる者、また悟りつゝも正道に帰せず、ますます我慢をはりて、生涯の失(あやまち)を改めざる者は、共に妖魔の部属に入りて、幽より事を行ひて、世人を邪道に引入れむとす、是れ邪なり。彼の界(さかい)にて山人と云ふには此(か)くの如く差別多し。さて前に云へる安閑無事に木石の如く長生する山人をおきて、余の山人は人を誘ふなど、折々世に知らるゝ態を現はすを、人は右の差別を知らざる故に、凡て天狗の態といひ、天狗と名づけたるによりて、姑(しばら)く彼方にても其の儘に称ふれども右何(いず)れも天狗とは異なり。天狗と云ふはもと天狐の事なりと師説なり」  
                                                               『仙境異聞』(上)二之巻 終             


 


    (注) 1. 「平田篤胤『仙境異聞』(上)一之巻」に続く「(上)二之巻」です。
『仙境異聞』(上)一之巻」が資料43にあります。
『仙境異聞』(上)三之巻が資料330にあります。
『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 一之巻が資料331にあります。
『仙境異聞』(下)仙童寅吉物語 二之巻が資料332にあります。
      2. 本文は、岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』(子安宣邦 ・校注、2000年1月14日
第1刷発行) により、(上)の二之巻を掲げました。
ただし、(上)の一之巻と同様、本文中の会話等を示す鉤括弧(「 」『 』)は、読みやすさ
を考慮して引用者が付けたもので、文庫の本文には付いていません。その関係で、鉤括弧
(「 」『 』)内の読点を句点に改めたり、会話文末の読点を省いたりしたところがあることを、
お断りしておきます。
        なお、<『仙境異聞』(上)二之巻 終>も引用者がつけたもので、岩波文庫にはついて
いません。 
3. 文庫には校注者・子安宣邦氏による後注が付いていて、読むうえで大変参考になりま
す。また、巻末に解説(『仙境異聞』─江戸社会と異界の情報)もあります。
4.  岩波文庫の底本は、『平田篤胤全集』第八巻(内外書籍、昭和8年刊)所収の平田家
蔵本の由です。
5. 掲載本文の「をりをり」「ゆさりゆさり」「しばしば」「ますます」などの繰り返し部分は、文
庫本文では「く」を縦に長く伸ばした形の踊り字になっています(文庫本文は勿論縦書きで
す)。
6. 岩波文庫 『仙境異聞 ・勝五郎再生記聞』の校注者・子安宣邦氏の『子安宣邦のホーム
ページ』 があります。

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