■戒律と法遵守

戒律と法律遵守
     藤原直哉
みなさんこんにちは。桜が咲き始めたかと思えば雪、場所によっては雪原の中の桜という風流な写真を撮れるのではないでしょうか。先日の本紙で戒律の話をしました。神が人に授けたルールが戒律、人が自分たちで決めたルールが法律です。特に日本の場合には戒律と言ってもどこかに書いてあるというようなものではなくて、昔ながらにごく普通にまじめに日々の生活と生業を規則正しく送る人々が違和感を覚えない生き方、お天道様に恥じない生きざまが戒律です。そして戒律というのは、これを破ると人も組織も国も滅びるというものです。
実際に日本国内でも外国でも有史以来実に多くの国が潰れてきたわけで、戒律を無視して人が勝手に法律を作っても結局会社も国家も潰れるものだということがよくわかります。今の日本は特に法令順守という名のもとに形式的な失敗を恐れて人がやるべき仕事をやらずにひたすら法律の辻褄合わせに熱中しているところがあります。しかしこれも実は戒律破りの典型で、人が人として本来の働きをしないのですからどんなに法令が緻密でしかもしっかり守られていても、そういう組織や国は潰れていきます。最近の日本は国も大企業もよく海外からまったくエネルギーを感じないと言われます。実際に多くの分野で日本は世界で躍動的に活躍している様子が見られ
ません。ではそういう国の役人や大企業の役職員は何をしているのか。法令順守をしているのです。法令さえ守れば自分が安泰だと思って何もリスクを取らないでいるのでしょうがそれは決定的な誤りで、どんなに法律を守っていても戒律を破ればその人も組織も国も滅びます。日本の場合は結局法令順守と言いながら積極的に世の中を進化生成発展させていくべき人としての当然の行動を多くの人がしなくなっているのです。
逆に欧米の場合には我欲の制御が効かなくていかに知恵を駆使して法律の抜け穴を探して破るかに熱中しすぎた挙句にデリバティブズ取引で回復不能の損失を生みだしてしまい、結局こちらもむさぼり取るなという戒律に反して滅びようとしています。
さらにイスラムの世界、特にイスラム原理主義では戒律という言葉がよく使われます。しかし筆者が思うにこれは人の勝手な解釈による法令順守とあまり変わらなくて、神の言葉をイスラム法学者が解釈して法律や規則に
して人々に押し付け、法令順守を厳罰で強制している部分が強いように思うのです。ですからイスラム原理主義の国には本来の人間らしい明るさや温かさを感じません。
ということはまさに日本は何もしないことによる戒律破り、欧米はやりすぎることによる戒律破り、そしてイスラムは勝手な解釈による戒律破りでいずれも今の組織や国が崩壊しようとしているのです。法律は国会で決めて裁判所が判断します。しかしそれがどんなに緻密に行われていても、やっていること全体が戒律に反してい
れば、すべては水泡に帰すのです。このことを日本も世界の人たちも改めて自覚せざるを得ないのが今という時代ではないでしょうか。特に日本の場合は国会議員、司法界、あるいは企業の法務担当者など、法律を作って運用している人たちに戒律と法律の違いを厳重にわかってもらわなければならないのです。これらの人たちが戒律に反して法律を振りかざせば振りかざすほど世の中は乱れ、国は滅びていくのです。いわんや世の中のリーダーたちが戒律を語らずに法律ばかり語り始めたらこれは滅びの兆しなのです。特に日本の場合、こうした閉塞状況を立て直すためには、とにかく役所も民間も現場に権限移譲することです。法令順守は廃止して、相当程度、現場に法律の裁量権を与えることです。裁判所も前例尊重などと言っていないでその都度白紙から考えるべきです。そのときに今までのように裁量権を握った人が横暴を働かないようにするにはどうしたらよいでしょうか。実は答えはひとつしかないのです。それはしっかり戒律を守れる人に裁量権を与えるということであり、その戒律は
教育によって与えるしかないということなのです。具体的には人々を生かす明るく温かい組織や国の運営を行うために必要となるリーダーシップやマネージメントの能力であり、その元となる人としての明るく温かい価値観であり、人として生きていることの意味の自覚です。こうした現場に即した戒律がしっかり教育で受け継がれている間は、その組織や国はさまざまな困難に直面しても根本が崩れることはないでしょう。ところがある時油断して戒律と法律の区別がつかなくなると、法律に反しないことは何でもやればよいということになり、むさぼりが発生します。そしてそれに伴う失敗の追及が今度は法令順守で何もしないという反動を生み、社会は暴走か
ら閉じこもりへと大きく振れ、結局組織も国も崩壊へと向かっていくのです。さらに失敗もそのコストは成長のなかから払うべきものなのです。すなわち失敗を恐れて何もしないと成長もなく、結局社会はコスト倒れで終わってしまいます。とにかく質的にも量的にも成長するためにはありち失敗が必要であり、失敗のコストは成長で払えばよいただそれだけのことなのです。誰が失敗したのかは誰が不運にも切られ役に選ばれてしまったかだけの問題なのです。ただ一点注意すべきは常に人々が戒律を守って仕事をしているということなのです。ですからたとえ成功していても戒律破りが見つかったらそれは厳しく正されなければなりません。そして成長とコス
トの差額が純成長であり、これがプラスになっていれば社会は前進し、マイナスであれば社会は後退していることになります。だから社会が後退を始めたら今までのやり方を反省して新しいやり方に変えればよいのです。この期に及んでもういい加減、くだらないタテ割りの壁や建前の応酬、どうでもいいような書類書き、異常な保身、悪知恵を駆使するような仕事や生活はやめにしませんか。そんな戒律破りをしていたら日本はみんな終わってしまうだけですよ。_

コメント

このブログの人気の投稿

■人間力とは・・・鳥取大学から

◇人生講座【目次】飯島秀行ワールド 

■現代語訳:霊の真柱:目次