■現代語訳:「古道大意」(1)


    上 巻  1-1               
   「はじめに」

   今ここに講説(こうぜい)することは、古道(こどう)大意(たい)です。まずその説くところは「我々の学風を古学(こがく)と申す理由」、
「その古学(こがく)の源及びそれを開き、人に教え世に広めた人々の大略」、又「その基づくところ」、又「神代のあらまし」、「神のお徳のありがたきいわれ」、又「我が国の神国なるいわれ」、又「賤しい我々に至るまでも神の子孫に相違ない理由」、又「天地の始め、いわゆる開闢(かいびゃく)より、恐れながら天皇命(すめらみこと)の御系統が連綿とお栄えになり、万国に並ぶ国なく、物をなす技も万国に優れていること」、又「日本人は、その神国なるゆえに、自ずから正しきまことの心を具えていて、それを古より「大和心(やまとごころ)」とも「大和魂(やまとだましい)」とも申していること」、 これらのこともあらまし申します。また「神代の神のご伝説、その御所業」、これらのことは、今の凡人の心をもってを思えば、大変に不思議で信じがたく思われます。そのことを諭(さと)し、その事柄をお話するなかに、まことの道の趣(おもむき)も自(おのず)からこもっているのです。

  ただし、神代のあらまし及び神のありがたき所以(ゆえん)などは、実に二十日や三十日、息もつかずに申したところで、なかなかもってその御徳の、広く貴く妙なるいわれの、それは万分の一も講説し尽くされるような事ではありません。それをこのわずか二日か三日ほどの間にお話しようとするために、よくよく思うところを、このようにかいつまんでお話したのては、かえって浅々(あさあさ)と聞き受けられる方もあろうかと思われますが、この後だんだんに講説いたしますので、粗々(あらあら)とでも神代の事を申しておきませんと、ご理解いただけないことが多いのです。
    
   そのためにやむを得ず、かいつまんで神の御代(みよ)の移り変わりを、いわば駈けて通るように申すのです。そのために彼(か)の世で誰もが言う「岩戸隠れ」や「オロチ退治」などの事は申しません。なお全ての細やかなことは、古伝説の純粋なるところを選びおいて、別途に詳しく講説いたします。その時に申しますが、しかしなぜその詳細をここで説かないのか思われる人もありましょうけれども、これには訳があります。
  その訳というのは、私が説く古道というのは、いわゆる天下の大道で、則ち人の道である故に、我が国の人たる者は、学ばずともその大意ぐらいは心得ているはずです。そのため講説はどなたさまでもご理解できないはずはありませんが、今の世の中は一般に、儒道、仏道を始め、その他諸々の道が広がっていて、各々その下の心に仏道によるとか、儒道によるとか、さては俗にいわゆる神道、または道学とか、またあるいは心学などということで、座りをつけおいたり、又そのように座りをつけているというほどのことでなくても、何となく右のような説などを、見馴れ聞き馴れ言い馴れて、なんらかの下心がないということはなく、また必ずかぶれていない人というのはないのです。

   それ故に、まず最初に私の専門とする古の道(いにしえのみち)を詳しく講説しますと、世間の人々の見馴れ聞き慣れ言い慣れているさまざまな事柄が障害となって、よく合点がいくほどに真の意味合いを悟りえません。聞き取りかねるため心得違いが出来て、大きな事が紛らわしくなるのです。ただ紛らわしくなるばかりでなく、その元より心に蓄えた事と、私が説く趣が違っていることによって、これを信じません。信じないため、全てをお聞きにならず、そのいささかばかりの聞いた事柄を、元より信じないままに聞き違え、その聞き違えたことを、それながらに尾鰭(おひれ)をつけて、外へ行ってあれこれと非難などするものです。世間を見ればそのような人がよくいるものです。

   もちろんこれは元より大意のため、よく聞かれたところで、実は古道学の万分の一でもありません。その万分の一の片端を、一日二日聞いたぐらいでは何も言えるものではありません。たとえばここに大きな牛が一匹いたとします。しかし全盲の人は見ることがかなわない、ただシッポばかりにさわってみて、その全体にさわってもみなければ、牛は小さい獣だと思って卑しめるようなものです。ただし、私はそれしきの非難は物の数ともいたしませんが、私の説く道はそのうち申し上げると分かってもらえるのです。

 この世の始めより今の神の事実でもって、ことに古の天皇命(すめらみこと)の広く厚いおぼしめしで、厳重に重んじてお伝えあそばしたことなどを申すため、さようにおろそかであっては、その天ッ神(あまつかみ)国ッ神(くにつかみ)、及び古の天皇命(すめらみこと)の後の世をおぼしめす厚き御心に対して、当方は何とも恐れ多きことによって、まずその旧来の聞き慣れ見馴れていることの、正実のあるかたち、又其の秘(かくし)ごとを粗々(あらあら)と論評して、人々の心に、仏道にもあれ、儒道にもあれ、心法(しんぽう)悟道(ごどう)、または俗にいう神道にもあれ、まずこのようなものだと言うことを心にとめ、座りをつけおいて、その魂が座ったところで、古道の奥意を、古伝説をもって、トックリと講説しますから、その時から私の説くところに疑いがなくなるのです。

  さてここでは、生半可に聞いて心得違い、または聞きかじりを人に語って非難するようなことはあるまいと思っています。またそういうところが、とかく何の道、何の学び事でも、始めの内は飽きてくるのが世の常の人情ですから、長い時間の内に退屈することがあっては、講説の私も無駄骨を折り、また聞く人々も栓のないことで、それゆえ次々に言い回しを変えて、飽きの来ないように、そのことを親しく初心者の耳に入れて、いわば面白みをつけ下ごしらえをして、なおトックリと真の道の精密な詳しく細やかなるところまでを、申し聞かせたいと言う本意を込めて思い立ったのがこの古道大意の講説です。とは申すもののここで説くことがらは、どなたにも早く心得るべき肝要なることがらを、取り集め、綴り合わせて申すのですから、これは大人げなく低いレベルの事を言うと思わず、トックと勘弁をいただきお聞き下さっていただきたいのです。

  
  「学問の種類」

  さてまた、別途に申したいことがあります。それは世間の学問と言えば、一つの方法のように聞こえますけれども、はなはだ種類があって、まず私がお教えいたす我が国の学問にも、細かに分けると七つ八つに分かれるのです。まず神の道を第一とする一派があり、また歌学といって歌の道を旨とするのがあり、また律令の学というのがあり、又伊勢物語や源氏物語を主に学ぶ者があり、又歴史の学と言って御代々のことを研究する者があり、又古実諸礼の学問が一つあり、その中にも俗に神道といってもさらに諸流があり、歌学といっても二三流派があり、ざっと御国のことを学ぶばかりでもこの通りの派が分かれるのです。

  また儒者の学ぶ漢学というのにも同じく御国の学問ぐらいに派が分かれます。又仏教も、これまた諸宗があり、各々その立場が違いますので、学び方が違うのも元よりのこと、又仏法から分かれた心学などという、ちょこざいな学びをして、人に勧める者もいます。これらの訳は別途に仏道の大意を説く時点で申すつもりです。又天文地理の学問、また蘭学といってオランダの学問、また医者の学問にも種々の区別があります。
                       
 なんとこのとおり学問は色々あります。その中に何の学問が一番大きいかといえば、少し自分勝手のようですが、御国すなわち我が国の学問ほど大きいものはないのです。まずは近く儒学と仏学との上で申せば、儒者はまず四書五経(ししょごきょう)とか、十三経(じゅうさんきょう)とかいう類の書物を読むことを覚え、また左国史漢(さこくしかん)といって『左傳』というもの、国語というもの、『史記』というもの、漢書というものなどの概略を読んで、さて漢文を書く方法を覚え、その普段の言いぐさに、詩を作ることでも覚えますと、もう儒者と言って通りますので、これしきの書物を読んで、これしきのことを覚えるにそんなに難しいことはないのです。大方の世間の儒者はみなこれぐらいのものであります。

   さてその儒者に比べては出家(しゅっけ)の方がよほど広いものです。なぜかといえば、己の是非を学ばねばならぬと極めたる、俗にいう経文が五千余巻、馬に乗せたら七十八頭分もありましょう。それをみな読まず、十分の一を読んだところが、ざっと儒者が主に読まねばならない書物の千倍もあるのです。それのみならず儒者は、仏書を読まなくても不足はないので読まず、たまには仏書を読む儒者もありますが、それは百人に一人もいません。修行僧はそれと異なり、儒者の主に見る書ならば子どもの時から、文字を勉強するため読んでいます。また詩も漢文も、儒者と同じように作りもします。ここで修行僧の学問は儒者よりは広いのです。

  また国学が一番広いというのは、以上申し上げた通り、儒学仏学を始め種々さまざまな学問が有って、その道々の心と事とが、ことごとく国学に混入しています。たとえば彼(か)八紘九野(はっこうきゅうや)の水、天漢(てんかん)の流れが注がないことはないというように、あらゆる学問が混入して、大海へ諸々の川々に落ちてくる水の混じっているようなものです。
  その通り入り交じっているために、人の心も多くそれに移り、いずれを良いとも、いずれを悪いとも分けられず、まごついている者が多いのです。そのため、その混入をつぶさに分けなければ、真の道のありがたいところも顕れず、その混雑をより分けて、真の道の害となることを、言い表そうとするにつけては、よく先の事を知らなければ言えないのです。

   中国人の蘇子由(そしゆ)も言っているとおり、こちらのことばかり言っていてはいけないものです。たとえば僧侶が諭すときは仏書で言われるとギュウの声もでません。儒者が諭すときは、儒書で論ずれば、猫も追われたネズミのように畏まります。しからば我が国の純粋な正しい道を獲ようとするには、ここのところを心得なければかなわないのです。


  ことに諸々の学問の道、たとえ外国の事にしろ、日本人が学びますからには、そのよきことを選んで、日本の用に役立とうとするのです。そうすれば実は中国はもちろん、インド、オランダの学問をも、すべて我が国を学ぶといっても違いないほどのことです。すなわちこれが日本人にして外国の事を学ぶ心得です。
  さて、我々の先師たち以来、私も及ばずながらこのとおり気をつけて、人にも講説いたしますからには、何ごともこの学問の本意に背かないよう、背かぬようにと吟味に吟味を重ねて、古人先達の公論明説(こうろんめいせつ)に基づき、その説を講説をいたしますものの、広範な事のなかには、考え違いや、言い違いもあろうと存じます。なぜならば、篤胤はもとより不敏の性質にして、なかなかに世の中の多い数多い事柄の、万分の一も知り得られるものでないことですから、考え違いもあることでしょうと、それは常に心づかいしていることです。
 よって、今お聞きになっている方々の内、門人に限らず、「いや、それはそうではあるまい」と思われるお方があったら、その思うことを言ってくださるがよろしい。その意見が実に理にかなうならば、速やかに改めるものです。また不審なこともあったら質問して欲しいものです。また神のことを申すに至っては、とんと世間普通の学者等の申すこととは違っていますから、さてこれは、今まで思ったこととは異なることだ、「鬼神(きじん)には陰陽の二気が備わっている、鬼神は造化(ぞうけ)【造物主】のしるし」と聞き及んでいますのに、平田の説く口からは、信じがたいことだと思うこともあるでしょう。これは私も元はそのように思ったことがあったもので、それもさらさら無理とは思いませんから、そのようなこともありのままに、ご不審を承りたいのです。

  中国でも疑わしい事は質問しようと思っても、「どうしたらよいだろう、どうしようかと自問しないような人は、私にはどうしようもない(論語)」とも言い。又、「太鼓や鐘なども、叩かなければ鳴らない」ようなものだと古人も言って、問答のたとえにしましたが、真にそのようです。何とぞ今日を始めとして、これからも投げ出さないで、神のありがたいところ、道の精妙なところまで、学びつき寄りつき、聞き干そうと志をふり起こされますように致したいものです。ただしこれは今日始めて、この席に出られた方々にばかり申すものです。







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コメント

Unknown さんの投稿…
jundoさま。初めまして。

平田篤胤翁の「古道大意」の現代語訳は大変重宝しております。国学の完成者とまで言われている平田翁の説をなかなか理解することが出来ずにいましたが、jundoさまのお陰で前へ進むことが出来ました。

私は手製の小冊子など作っていますが、是非「古道大意」の現代語訳を引用させて頂き、少しでも広めていきたいと思います。

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