■現代語訳:「古道大意」(3)


完全現代語訳「古道大意」・・・いよいよ「古事記」の成り立ち!!

上巻 1-3
  「古道学のよりどころ」

 さて、私の説く道の主旨は、何をより所とするかといえば、古の事実を記してお伝えされた、朝廷の正しい書物に基づくもので、真の道というものは事実の上に具わっているものです。それなのに、とかく世の学者どもは、ことごとく教訓というのを、書き表した書物でなければ道は得られないものと思っている者が多いのです。
 これはたいへんに心得違いのことで、教えと言うものは事実よりたいへんに低いものです。その訳は事実があれば教えはいらず、道の事実が無い故に教えということがおこるのです。中国の『老子』という書にも、「大道すたれて仁義あり」と申したのはここを見抜いた言葉です。 
 ことに教えというものは人の心には親しくは沁みないもので、たとえば武士を励ますのに「戦に出たからには先駆けせよ、人に後れるな」と書いた書物を見せるよりは、古の勇士達の、人に先立ち勇猛果敢に闘い、高名をなした事実の戦記物を見せた方が、深く心に沁み込んで、私もいざ事があれば、昔の誰々のように、あっぱれにやって見せようという、勇猛心がふり起こります。「先駆けせよ遅れをとるな」という教えでは、そこまでは心をふり起こさないのです。
    
  また、最近では「主君の仇は討つべきものだ」という教えを聞くよりは、大石内蔵助はじめ四十七人の義士が千辛万苦の難儀をして、主君朝野内匠頭殿の仇、吉良上野介殿を討った実の話が身にしみじみと、髪も逆立ち、涙もこぼれるほどに、心に深く沁みるのです。これはどなたでも心に覚えがありそうなもので、特に教えというものは、その人の心のありさまや人となりがよからぬ者が言った教訓でも、書物として残してあり、如何にももっともらしくみえるのでものです。 中国の教えの書物というものにはこれがけしからずに多いのです。あるものには、主君を殺して国を奪った者の教えや言葉にさえ、誠に金科玉条と言って、玉とも金とも言いそうにもっともらしく書いてあります。しかしながらその本当の行いを見れば、主君殺しの国賊であるからにして、もっともらしく言っている事柄は、みな空言と言ってソラゴトであります。
 実が無く、その書き連ねたる所ばかりが立派では、それは山売りの能書きを見たようなものです。これらの訳を夢にも知らず、この教えの書物でなければ道は得られない、教科書としてなくてはならないと思って、世の常の学者や道学者などという輩が、そればかり唱えていることは片腹痛いのです。

   中国でこれらの訳をよく心得たのは孔子一人のようです。そのお言葉とは、「孔子が思うには、人を教えますのに、それはそうするものではない、これはこうするものだというように、もっともらしき教えを書いて人を諭そうと思いますけれども、それでは人の心に入りません。だから、それよりはこれを、人が行った事実を書き著して見せるほど、深く懇切丁寧に、著しく明らかに人の心に染みることはない」というのです。

  このようなお心ゆえに、孔子は教えの書としては一部一冊も作らず、ただ『春秋』と伝記録を調べ直して、誰それはこのような悪行があった。誰それはこのような善行があったということをありのままに記して、其の記録を読めば、自ずから其の中に、ちゃんと悪を懲らし、善を勧めることを、人が気がつかないように書き取ったものです。
 実に孔子の生涯に渡る大成果と言うのはこの『春秋』であります。それ故に「私の志は『春秋』にあり、また我を知る者はただ春秋か、我を裁くのはただ『春秋』か」と申したのです。これは私が存分に志を込めて記した書物は『春秋』なのだ、この『春秋』が世に伝えわたり、後の人がこれを見て、いかにも孔子は道をわきまえた人だと知ることが出来るのが『春秋』なのです。また国家の君主にしろ、主君殺しは主君殺し、親殺しは親殺しとありのままに記したために、これは孔子は遠慮がないのですと、後世の人が私を罪に陥れるのもこの『春秋』なのだという意味です。
 これほどに心を込めて書いた『春秋』ゆえに、大変に実のあるもので、この心が良く見えるのはこの書を越えるものがないからなのです。しかしながら大方の世間の儒者どもが、儒教の書の上でも、このように確かな教えがあるのも知らず、ただただひねくった理屈の教訓を書いているのは、己が本尊とする孔子の本意を会得もせず、『春秋』をよく読まないからの誤りです。なんとこれで真の道というものは教訓の書ではその旨みが知れなく、事実の書物でなくては、真意は得られないのだということがお分かりいただけると思います。

        
  「古事記の成り立ち」

  ただ今申したとおり、真の道というものは教訓ではその旨味が知れません。従ってその古の真の道を知るべき事実を記してあるその書物は何かといえば『古事記』が第一です。その『フルコトブミ』というのは世間の人が『古事記』と覚えている書物がこの『フルコトブミ』というのであります。


 さてこの書物がどうして出来たものかといえば、カケマクモカシコキ神武天皇より、第三十九代にお当たりあそばす天武天皇のありがたくも厚いおぼしめしを立たせた御事です。一体その以前に、古くから朝廷にも諸家にも書き伝えたもの、天地の初めよりの、古い伝説の御書物が有って、それが神代の古い言葉のままに書いてあったのです。ところがそれには各々に誤りもあり、又まぎわらしいこともあったというのです。そこで天武天皇が御心づきなされて、このようにまぎわらしい説があっては、今この時に正しい事実をも撰び定めなければ、後世に至ってどれを是とも、どれを非とも分からないようになるだろうと仰せられて、その朝廷の御記録はもとより、諸家の記録などを集めて、詳細に御吟味あそばされ、いささかも紛らわしいことなく、正しいことを調べ上げ、お撰びなされた書物です。もっとも神代の古言のままに、言葉の清み濁りをさえ厳重にお調べなされて、違わないように誤らないようにと、まず御自らの口にてみうかばされたものです。

   その頃、稗田阿礼(ひえだのあれ)という女性がおって、年は二十八才、殊のほかに利発で聡明なお方で、口で誦み耳に触れたことは心に刻まれて、決して忘れるということはないお方でした。そこでその阿礼を召されて、先の調べに調べ上げられたる所の、天地のはじめより、御父帝舒明(じょめい)天皇までの御事を、天武天皇が自らのお口からお教えになられ、それをとっくりと稗田阿礼に唱えさせて、口直しされあそばしたのです。

 これは我が国は始めから、言霊(ことだま)幸(さきわ)う国と、古語にもあり。言語の道を守り幸(さきわ)う神がおられて、その言語の上にことごとく精密なる、真の道の趣がこもっているのですから、それを違えないように、失わないようにと重く思い召されて、読み浮かべて、言葉の清み濁り、上がり下がりまで心を配られたる上に、御書き取らせたという、厚いお心でおわしました。しかし、そのうちに御代が替わって、このお次が持統天皇と申し上げ、そのお次が文武天皇と申しあげます。 
  
ところがこのニ御代の間に、如何なる故なのでしょうか、ただ稗田阿礼が口で誦うかべていたばかりで、お書き取りはなされなかったのです。その次を元明天皇と申し上げます。この時阿礼は、もはや五十有余であったのです。ところでこの御代の和銅四年九月十八という日に、朝民の太安万侶(おおのやすまろ)という人に仰せ付けられて、それをお書き取らせ、翌年正月二八日という日に、記し終わらせて献上されたのです。これが即ち太安万侶の表序に書かれた趣旨で、この書が即ち『古事記』です。

  この和銅五年が、今この文化十年よりは一千八百年になるのです。さればこの『古事記』は、天武天皇の厚いおぼしめしで、御自ら古伝説の正実な所をお選びなされて、御誦みうかばされた古語ですから、世に類もない、いとも尊き御本です。もし元明天皇の御代に、そのお志をお継ぎなされて、お書き取りなされなければ、このような尊くてありがたい古語も、稗田阿礼の命と共に失い果てるところであったろうに、ありがたくも和銅の御代に、記していただいたおかげで、今の世にまでも伝わって、このように拝見させていただけるのは、まことにありがたいことです。かりそめにも道に志す者は、頭上に捧げ持ち、天武天皇、また元明天皇の二御代のありがたきおぼしめし、また稗田阿礼、太安万侶の御徳を忘れるべきではないのです。
                     
  

                                                            


  上巻 2-1に続く



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