■現代語訳:「古道大意」(9)



完全現代語訳・古道大意・・・いよいよ神武天皇登場!!

巻 3-3
「カムヤマトイワレビコ(神武天皇)」

  さて皇孫ニニギノミコトは、まず筑紫(つくし)日向(ひむか)の高千穂の峰に、天降(あまくだ)りあそばして、大宮所と成るべき所をお尋ねなされて、吾田(あた)笠狭(かささ)御碕(みさき)の長屋の竹島(たかじま)を都となされて、の下(あめのした)を治められたのです。    
 ここにおいて国ッ神たちは、何れもニニギノミコトを天ッ神の御子として畏んで仕え奉られました。このときより代々の天皇を、天ッ神の御子と申すことになったのです。このような訳ですから、天子とお呼びするのは字音であって、元より漢語ですが、この天ッ神の御子と申し上げる尊称によくかなっている言葉で、まことに天子と称するは我が天皇に限ることです。それにつけても中国(唐)の王を天子と言うことが当たらないわけは「漢学の大意」のときに論弁するつもりです。

   さてニニギノミコトは、笠狭(かささ)御碕(みさき)になる竹島(たかじま)に御座なされて、天の下を治められ、オオヤマツミノ神の御娘、コノハナサクヤヒメノミコトをお迎えなされて、お生みあそばしたのがアマツヒダカヒコホホデミノミコトと申し上げます。このヒコホホデミノミコトが、わけあってツミの宮(わたつみのみや)と申して、則ち海宮にお出でなされて、そのワタツミノカミの御娘、トヨタマヒメノミコトと申す神をお娶りあそばし、お生みなされたのがウガヤフキアエズノミコトと申し上げます。さてそのフキアエズノミコトと同じくワタツミノ神の弟娘、タマヨリヒメノミコトという神をお娶りあそばして、お生みなされたのが、カムヤマトイワレビコノミコトと申し上げます。このお方の御代(みよ)に、日向の国笠狭(かささ)御碕(みさき)より、大和の国へ都をお遷しになられて、かのナガスネヒコなどをご誅罰あそばしました。これが一般にもよく知られている神武天皇様でございます。ただし神武天皇と申し上げるのは、誠の御名ではないのです。実の御名は前に言った、カムヤマトイワレビコノミコトで、それをはるか千年ばかりも後の世に、中国(唐)風のおくり名を奉って、神武天皇と申し上げるのです。

 
  「天神・地神」
  さてここで申さなければならないことがあります。それは俗の学者の説、及び一般の人もみんな申すことに、天神七代、地神五代、人王何十代などと申しますが、これはその初め、如何なる人が言いだしたことでしょうか、大変な誤りで、全く当たってないことです。それはまず、『古事記』にも『日本書紀』にも、クニノトコダチノカミ以下、イザナギ・イザナミノカミまでを、神代七代と申す理由は見えますが、クニノトコダチノカミ以下、イザナギ・イザナミノカミまでこれを天神と申すことは見えない。七代の神たちは、みなこの国土に付いてお生まれなさったことだから、ッ神(あまつかみ)と申すべき謂われはないのです。              
 天地最初の、早くより天に御座なされた、アメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、カミムスビノカミ、次にウマシアシカガビコノカミ、アメノトコタチノカミこの五柱の神々を、古事記では分けて、天ッ神と記されたため、それより以下、クニノトコタチノカミよりイザナギ・イザナミノカミまでは、天神と申さないことは明らかです。しかしながら正しくこれを、国ッ神(くにつかみ)と称したことも物の書には見えません。国ッ神と申すのは、ニニギノミコトより後の御代に至って、この国なる神を、天ッ神に対する時に申す尊称です。                                           
 また天照大御神よりフキアエズノミコトまでを、地神五代と申すのも、大変な間違いです。その訳は天照大御神は、この国土にはお生まれあそばしましたけれども、御父神イザナギの大神の御心として、天を治められ、今も目の当たりに拝み奉る、その天日を治められる神におわせば、天ッ神なることに論はなく、その子オシホミミノミコトも、そのお孫ニニギノミコトも、天にお生まれあそばしたことですから、これは本より天ッ神である。それだからニニギノミコトがこの国に天降りあそばしてこの世を治められ、その御子ホホデミノミコトより、ご子孫の次々を天ッ神の御子と申すのです。ただしホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトはこの国にお生まれなされたために、天ッ神とは申しません。しかしながらまたこれを、地ッ神(くにつかみ)申したことも、更に物の書には見えません。それはなぜなれば、この国土にお生まれあそばしましたけれども、天ッ神の御正統におられるがために、皇孫命(すめらのみこと)とも、また漢文で書くときは天孫(てんそん)とも申すのです。このような訳ですから、どうして天照大御神や、オシホミミノミコト、またニニギノミコトをッ神(くにつかみ)と申すべき謂われがありましょうか。
             
  およそ天神七代、地神五代と申すことは、古書には全く見えないのです。忌部正通(いんべまさみち)の神代の巻の口約というものに始めて見えたことです。これは事の意味も、古のことも考えず、強いて天と地とに当てはめようとして、みだりに言い出した後世の俗説です。そうですのに、世の学者どもはそのような心得もありませんのに、賢こそうに天七地五などと言います。また神武天皇以下を、人王とか申して、すなわち天地人の三元に似せる等と言います。また天を治める天神と申すなどと言い。あるいはこの七代五代を天の七星、地の五行に似せると言い。又は易の八卦に当てはめて説くなどすれども、すべて近世の中国(唐)思想の輩の私説で、みな受け入れられないことです。また佛説好きな者は、この七代を過去の七佛に形どるなどと申しますが、このような類は耳に触れるのも、聞くのもけがらわしく、片腹痛く、誠にはなはだ恐れ多い御事であります。


  「神代・人の代」
  さてまた神代と申すのは、人の代と分けて申す尊称です。それははなはだにッ代(かみつよ)の人は、すべてみな神であったために、その代を指して神代と言ったものです。さていつ頃までの人は神で、いつごろからこなたの人は神でないかは、はっきりした差別はないことから、万葉の歌などにも、ただ古を広く神代と申したもので、それは『万葉集』の六の巻に「大和の国は皇祖(すめらぎ)の 神の御代より敷きませる 国にしあれば」と詠んだのは神武天皇の御代を申します。又十八の巻に「スメロギの神の大御代」と詠んだのは垂仁天皇の御代を申します。又一の巻には、その御代をも誉めて、神の御代と詠んであります。なおこの外にも広く古を神代と申した例はたくさんにあります。しかしながら事を分けて言うときは、ウガヤフキアエズノミコトまでを神代とし、神武天皇より以下を人の世とすることで、日本書記にもこの意をもって、ウガヤフキアエズノミコトまで二巻を、神代上下と標(しる)されたもので、さようカムヤマトイワレヒコノミコト則ち神武天皇の御代に、始めて日向の国笠狭(かささ)御碕(みさき)より大和の国へ都を移され、世の中の有様も全く新たになったために、これより後を人の世と言うべきものです。

  しかしながら今でもってこれを思えば、神武天皇の御代より、その後なおしばらくの御代々 、まだまだその人の世は、神なる事どもがあって、やっぱり神代というべき有様で、それから段々と年が経って、御代の代わるに従って、今の姿になったのです。

   さてこのように凡人と成り果てた、今の人の心をもって思えば、いかにも神代の人の神なる所業が霊妙で、疑わしく思われますが、更に疑うべきことではないのです。それを世の学者どもが、今の凡人の心をもって古を考え、かれこれと異国の説を取り合わせて、古の神の奇々妙々と霊妙なる事跡を説き曲げ、それを強いて不思議でもない様子にたわごとを吐き散らし、説を本にして世に広めたのです。そのため世間の人もそれを見たり聞いたりして、心にしみ込み、神代の事はみな寓言と申して、作り事だと思うようになってしまったのです。                                           
 神道者や世の常の学者どもの言う通りなら、神代の神々は、やはり今の凡人と同じであって、その神が不思議であったということが、みな寓言の作り事だとして見れば、神は今の人間と変わりもなければ、特別に神というべきものでもなく、又ありがたいこともないのです。     
 そうすればその代を指して、神代という理由もなく、また我が国を特別に神国というべき筋もなく、また我が国の人に限って神の末裔ですと、自分たちだけよく言うものでもないのです。すべて世間の生半可な輩は、とかく神代の神々の、霊妙なる御所業を信じません。中国(唐)風の小さな知恵を振り回して、賢こげにかれこれと申しますけれども、これは「夏虫の見方」と申して、夏になって生じた虫が、氷を疑うようなもので、身の程を知らない愚かなことです。                            
 今それらをお諭しします。天地をお始めなされた、霊妙といって、霊(あやし)しく不思議な神々の御子孫が、世を経て年を重ねるにつれ段々と、かの霊妙なることから遠ざかって、このように霊(あやし)いことも何もない、今の凡人となって数十代を重ねました。                
 身近な例えで申しますと、まずその家を興し始めた先祖が、ちょうどあの、釈迦ガ岳とか、谷風とかいった相撲取りのように、大男で背の高さが七尺も八尺もあって、肩の広さが三尺余りもあって、その手を広げると半紙の紙の外に出る。またその履物がナント二尺もある。その力量といえば、風呂桶に水を一杯に張り、その中に母親を入れて、軽々と持ち運ぶ。又四斗俵で拍子木打に打って見せます。食べ物は三、四升の飯、もっともおかずもたくさん添えてあるのを、まだ食い足りないように食べてしまう。それに応じて着物も大変に大きく、家も大変に大きく広く、屋根の棟の高さが五、六間もあり、何もかもこれに準じて大造りでした。その時それが生んだ子はよほど劣って、背の高さが一尺も低のです。それに準じて何もかも、親よりは劣っています。又それが生んだ子は又一刻み劣っています。その次も又余程劣り、年を経て代々を重ねるうちに、段々と劣ってきて、ついつい彼の小人島と言うように、骨だけになって、これから後は全くその姿に落ち着いて、それが大分増えたのです。これが神代から段々、今の世のように成り代わったことの例えです。

  
  「一寸法師の譬え」
  さてこの一寸法師の世になって後に、かの先祖の事などを詳しく書いた一巻が伝わっています。これが神代の事績を御伝え、御記(しるし)なされた、『古事記』、『日本書紀』などの譬えです。
   
 それを一寸法師の世になって、読んでみたところが、あの先祖の大男の、背の高さが七尺余りもあって、四斗俵を拍子木に打ったことなどが記されてあります。ここで一寸法師どもが大きにたまげて、「いやこれはけしからないことだ。こちらの親も祖父も、やっぱり我らと同様であったものを、それにこのような事が書いてあるということは、いかに先祖だとしても、そんなに大きなはずはなく、こんなに力があるはずもない。これは信じられないことだ。これは先祖と言うものだから、尊く思わせようとするために、寓言のつくりごとをして、中世に書いておいたものだろう」と言っているのです。これが世の人の神代の事績を、今の凡人の上に比べ見て、信じないで疑うことの譬えです。              
 ところが同じ一寸法師たちの中に、一人が頭を振って、「いやそうではない。疑うべきことではない。その訳は今も現在に、その先祖の手の跡を写された紙が伝わっている。又その着ておられる着物も伝わっている。つらつらそれを見れば、着古した垢が付いた様子という。また手の跡を写されたという紙には、手の筋が写り、指の巻きめの跡があり、とてもとても後世に偽って作った物とは見えず、疑わしいものではなく、誠に先祖の着物、手のひらの跡を写されたものに違いない。それのみならず、この家を始め興す程の先祖だもの、又我らが住んでいる家も、よくよく見てくれ、実に大きな物ではありませんか。決してこちらの扇だけしかない者どもの、手ぎわにできることではありませんから、先祖は実にこの書いてあるとおりである。それから劣ってきて、ついついこちらが、お互いのように落ち着いたものと見えますから、よく考えて、かれこれ先祖のことを怪しむべきことではない」と、詳細に言い聞かすのです。                                   
 その一人の一寸法師と言うのは、古の道を諭そうとする縣居の大人(あがたいのうし)本居(もとおり)先生などの譬えでは、その手のひら跡を写した紙や、着物が残ったことなどは、神代の遺物、天の橋立や草薙の剣の類、その他も今の世に遺って、そのままある物の譬えです。家が大きいことを教えるには、この天地が大きく不思議で、それを御造りあそばすほどの神であるからと言って、私が教え諭すようなものです。                               
 さてこのように、一人の一寸法師が諭しても、他の一寸法師どもは、今の自分たちが、何もかも先祖とは、大きく違っていることにばかり、目がつき心が引かれて、先祖が大男で、右のように力もあったことを、一向に寓言として、更にさらに肯定せず猶かれこれと言ったならば、なんとこれはどちらがもっともなことでしょうか。                                               
 神代の神の御上のことを疑うも、こんなもので、天地の御始めなされた程の、皇大御祖神(すめらおおみおやがみ) たちの、奇霊(くしび)なお仕業を、おそれ多くも、ゆめゆめ疑いなさるべきことではないのです。猶これらのことは、師の翁がいろいろ諭し置かれております。
  
   「神の末裔」
  さて、カムヤマトイワレビコノミコト、則ち神武天皇は、大和の国の橿原の宮(かしはらのみや)と申す所におられて、天の下を御治めあそばして、この天皇様より今の天皇様まで、御血脈が連綿と御続きあそばし、百二十代もの間に変わりがなく御栄えあそばしたのは、実にこの地球のありとあらゆる国々に比類なくありがたい御国です。これが実に道の大本であり、中国(唐)の国などとはとんと訳の違っていることで、なんと天地の初発の時に、その天地を御造りなされた神々の、世に殊(こと)なるおぼしめしで、厚く御心を入れられて、神の御生みなされたものです。 
                                                                又その末裔として、世に殊(こと)なる御威勢があられました、オオナムチノカミ、スクナヒコノカミが御経営されまして、四海万国生きとし生けるもの、鳥獣草木に至るまで、そのお陰をこうむらないということはなく、天ッ日則ち日輪の萌え上がった本の御国で、その天ッ日をお治めなされて、天地のあらんかぎりに、世を御恵みあそばす日の神、天照大御神の御生国で、タカミムスビノ神の祖孫、天照大御神の御孫にあられて、ことさらにこの二柱の神の、御愛しみ御恵みあそばされた、ニニギノミコトへ天にまします神々のうち、特に卓越したものばかりを、右の二柱の大御神のお眼鏡をもって御選びなされ随行とされました。     
 又天照大御神の殊(こと)に大切と御斎(いつき)あそばされる、三種の神器を、天使の御爾(おしるし)として御授けになりました。
又御口自ら、「豊葦原の瑞穂の国は、我が御子孫が次々と治めて、天地とともに無限であるべき国ぞ」と御祝言を仰せられた、その御神勅が空しからず、ニニギノミコトより今の天皇様まで、唯一日の如く御代をお治めになられて、随行された神々の御子孫も、今以て同じように連綿と続かれて、その子孫が世に広がりました。又代々の天使様の末裔の御子たちへ、平氏や源氏などの名字を下されて、臣下の列にもなされましたが、その末裔の末裔が増え広がって、ついついお互いの上となったもので、なんとこんなわけですからこそ、我が国は誠の神国でありますまいか。なんとお互いは誠に神の末裔ではありますまいか。

  今はこのように落ちぶれて、その先祖の神も確かではないようですが、我が国の人には各々に氏性と言うのがあって、それは元来天子様より賜ったもので、近くは源平藤橘などと言って、源とか平とか橘とか、藤原とか言うものがこれです。それをもって古を詮索しますと、大きく知ることが出来ます。又その姓をも知らないという人は、今名乗っている平田とか、何とか言う類の、名字というもので、大本の先祖を探られるもので、これを系図の学問と申して、また一派が立っているのです。その人は知らずにいても、名字を聞けば、これは何と申す神、何と申し上げたる天子様から出た人だと言うことは、こちらには自分のことではなくても、おおよそは調べなくても知れるのです。

   そもそもこのとおり、古伝説の事跡によって、よく明らかにする、又普段の生活が忙しく、自分で明らかにすることができない方々は、先生の話を聞き覚えられて、その上で我が国は神国ですとも、我らは神の末裔だことも、ここにおいて氣強く伝えられるのです。そうでなくては、もし人になぜ貴方は、我が国に限っては神国だの、また神の末裔だのと、大きなことを言うのだと咎められたならば、ギックリするろうと篤胤には案じられます。又そう咎められたところで、この位におおざっぱに心得て答えたならば、彼のお互いに賤しめる中国(唐)の人すら、その先祖の美を選び定めて、明らかに後の世に著したものなのです。その先祖に善があっても知らないと言うのは、不明と言って、道理に暗いというものです。「知りて伝えざるは不仁」と言って、先祖へ不実不幸だと言ったことにも、恥ずかしくないというものです。

    

         





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