■現代語訳:「古道大意」(12)



完全現代語訳:古道大意・・・いよいよ最終回、日本のすばらしさ!!

下巻 4-3
「日本の刀は世界最高」

  さてまたある人が言うには、「大人同士が集まれば、まず古人の武功のことを談じ合うことを第一として、これを詳しく評論して、強く感心して、事があったときはそれをまねようと心がけます。又兵器といって、戦い道具にも乏しくありません。遠くにいて戦うには弓があり鉄砲があります。また手と手とを交えて戦うには、槍と刀を用います。特にその刀の鋭く切れること、一と太刀にして人体を両断するほどのものだ」と、大変にたまげていますけれども、まだまだこんなものではありません。二つ胴裁三つ胴裁といって土段をかけて切り払うなどというようなことがあるのです。

   さてこれは良いついでだから申しますが、我が国の刀が万国最上で、そのために外国人の欲しがるのは言うまでもないことで、なんと同じ鉄で造るものですが、どうして我が国の刀に限って、そのようによいのでしょうか、鍛えようだと言っても、外国の人は別にそれなりに工夫を凝らすことだから、劣ることもなさそうなものです。しかし、ここが風土のせいで、刀は特別に万国に勝れなければならない訳があって、このことは先年詳しく考えて、別に書いておきましたけれども、今その概略を申します。
                
 まず我が国は、段々と申すとおり、万国の元首すなわち頭です。人体で譬えれば額のところ、又刀で言えばその切っ先のようなものです。特別に天地の初めの時に、天ッ神タカミムスビの神様が、天の沼矛をイザナギ・イザナミ二柱の神へ下されて、国を造れと仰せられました。又二柱の神はその矛を指し下ろして、かき回されて、その矛の滴りが固まって島となって、それが大きくなって出来たのがこの我が国です。
 ミムスビノカミのお授けあそばすに、他にもお品があろうに、矛を下されたのには、深い謂われのないはずはないのです。これは凡人となった今の人の心では、いかんとも計られないことですが、我が国が自然と堅固で、人が雄々しく強く勝れているのも、まずあらかじめここに萌しが見えるのです。       
 又この後オオクニヌシノカミが八尋矛(やひろのほこ)というものをおつきなされて、我が国をお治めなされました。そして我が国をスメラミコトにお譲りあそばれる時に、その御矛も譲られ、その矛でもって御治めなされるならば、天の下は安らかに治まる訳を仰せられて、差し上げられたのです。このように仰せられたのには、これまた必ず深く不思議な謂われがありそうなものです。     
又朝廷の御守り天津日継の御璽であるところの、三種の神宝の一つが、アメノムラクモの御剣と申して、霊験と申すのも今更ながらですが、これもはなはだ深い謂われのあることです。わが翁の歌に「世の中の有る趣は何事も、神代のあとを尋ねてしらゆ」と詠まれましたが、実にその通りで、これらのことをよくよく考えますと、言外に言い出しがたい旨みのあることです。かの生半可な唐かぶれの人には、なんと聞き受けられましょうか。 又町人百姓に至るまで刀を脇に挟んでいます。これは外国にはあまり無いことです。自然則ち神の御心で、おしなべて雄々しく強いですので、古くは町人も、みな刀を指して歩いたということです。すでに亨保年中に、則ち有徳院様御代に、「町人の輩が脇差しを指しているのは、いつ頃からのことだ。書き物でも有るか」と御尋ねがあったところが、さっぱり分からず、何時からということなく、久しく指してきたもので、あまつさえ、以前は刀をも差したことを、町奉行まで申し上げて、その後はいよいよお構いなく、今も指しているのです。
  
 「日本が交易しないわけ」
  さてまたある人が言うには、「この通り国が強く人が強く、物が足りるならば、外国と交わることはだめなことだ。それだから国を閉ざして、交易をしないのだ。自然とこの理由を日本人が覚えたもので、その自然というのが実は天ッ神の教えなのだ」          
 ここであらためて日本が恵まれていることを細かに言えば、まず第一に国土が片寄った地域になく、それゆえ南国のように暑くてどうにもならないというようなことがなく、また北国極寒のどうにもならぬというような寒さもないことです。またこれはいうまでもないことですが、豊饒で楽しむべき、よろこぶべき国々は北緯三十度と四十度との間にあって、それが最良の国々です。日本はちょうどそれにあたっています。                              
 またある人は非難して、「日本は険阻で石が多い、またするどい高山の多い国で、よほどそこのその国民が苦労しなければものは出来ないだろう」というが、それもまた天ッ神の御心で、この国を特別に恵んでそうしておかれたものです。その訳は、そのように険阻で、民の耕作に骨が折れるのは、かえって結構なことで、一体人というのものは、労せず働かずにいては、体がたるんで病がおこる、とその訳を詳しく書いてあります。そういうわけで、このとおり天ッ神がこの国の人を骨を折らして身体をすこやかにし、また人間の魂のやどる頭脳を鋭敏にし、精神のはたらきをすぐれたものにしようという御心からされたことです。なかなかもって、あのインドのような熱帯クロンボの人達が、自然生といって、自然に生えている草木を頼みにして、それでもって命をつないでいるほとんど鳥獣に等しい者達と、同じにはしないという 天ッ神の御心なのです。太字
  
 「島国のよさ」
  またある人が非難して、「日本の土地はあちこちでちぎれていて、いわば諸々の島を寄せ合わせたような国であり、悪い国ではないでしょうか」と言う者もありましょうが、これもまた 天ッ神の御心で、特別に日本をお恵みなされる証拠なのです。その訳は、日本の国々がちぎれているのは、たとえばこの大地球の国々が、遠く離れてあるようなもので、離れているためその国々によって産物が各々違って、色々有用な物が出来るのです。それで日本一国だけで外国のものを望まなくても済むように、神がなされたものだといって、我が国の国々の産物、美濃・尾張の米がよいとか、佐渡から金が出るなどということを詳しく言います。また諸々の細工が万国に勝れて、結構な国ということを覚えていることですが、その国に生まれて、その国のことを知らずにいるというのは悔しいことです。それだけでなく、これほどすばらしい国に生まれながら、外国どもを誉めて、よい国だ、強い国だなどと思って、その外国の者たちが、我が国近くの離れ島へ、生意気な事でもしますと、驚いて眉をひそめる者があります。これは一向とりとめのない愚かなことです。しかしながらこれは我が国の人の本心からそうではありません。皆外国の学問を、悪く修得した人達が悪弊を広めたからのことです。

  それはまず佛者は、インドばかりを誉めて、インドは佛の本国で尊い国だ。我が国は東方の粟散国といって、東方の海へ、粟粒一つを流したような国だ、などと言って騒ぎます。また儒者は、唐を誉めて、唐は聖人の国だ、中華だ、我が国は小国で、かつ野蛮人、未開の民族だなどと言って、我が国を卑しめます。また近頃はやり始めたオランダの学問をする輩は、よく外国の様子を知っていながら、その中には、心得違いをしています。又やみくもに、西の果てなる国々を贔屓して、たとえばロシアは大国だ、それに人が利発で、そのうえ火術といって、鉄砲や大石や火矢を絶妙に使って、それで百里もの先の城郭などを、一発で潰してしまう。日本ぐらいの小国は、粉みじんにするほどのことですから、いとわしいものだなどと言って、その図や、あるいは世界絵図などを出して、この通り日本は小国だ、などと言って驚かします。既に先年蝦夷の離れ島へ海賊が来て、盗みをしていったという噂があった時などがそうです。

  これは皆、神国の神国たる故を知らず、我が国の国柄について疎いからのことであります。まだしもその各々は、他の国の世話ばかりをして、国柄に疎いことは、不便ながらも仕方がありませんけれども、その己のおじけ魂を世に広めて、一般の人にまでそう思わせるのが憎いのです。しかしながら我が国の人は、あのケンペルも言ったとおり、自然に雄々しく武強いことです。その外国を強いかのように思うのも、実は外国びいきの人に言い立てられて、ちょっとかぶれているばかりであって、その底の心とは「この国は神国だ。我々も神の孫だ。何で毛唐人めが、野蛮人どもめが、何ほどのことを仕出すものか、蹴散らしてやるがよい」などと言います。大変に強いものが底にあって、これは篤胤が申すまでもなくそうあります。
  なかなかもって、唐の人のように、未開の民族だの、野蛮人だのといって、禽獣のように卑しめる、その野蛮人に国をことごとく奪い取られ、あれ程の大国の人々が頭を垂れて、その卑しめた北の野蛮人を君王と敬い、今は国中のこらず坊主頭にされてしまいましたが、こんな腰抜けは、我が国に限っては一人も有りはしないのです。

  世の中にはいくらでも、道を説くとか、教えるとか、広める人がおります。それを聞くと大抵は儒者で、悪賢く狭い了見を説きちらします。又道学者などと、大げさに名乗る輩は、心法や悟道とかいうように、佛臭く地獄臭いことを広めて、人に不人情を示して、役立たずの腰抜け根性にしようとします。その言うことをちょっと聞きますと、もっともらしく聞こえますけれども、よく考えて見ますと、大抵は誠の道に背いていることばからり言っているのです。             
 
 「真 の 道」
 それならばその真の道というものは、えらくむずかしいことかといえば、いっこうに無造作なもので、あの心法や悟道や、聖賢のまねなどのように、出来にくいものではないのです。天道は何の差し障りがなく、大手を振って歩かれるように、どんな人にも心安く出来ることで、みんなが知らず知らず、その道を歩んでいるのです。それはどうしてかといえば、誰もが生まれながらにして、神と君と親は尊く、妻子がかわいいということは、人の教えを借りなくとも、見事に知っているのです。

 人の道に関することは、大変複雑多岐なようですけれども、実はここからきているものです。その元はミムスビの神の御霊によって出来たのが人ですから、その真の情も、直ちにムスビの神が御付けなされたもので、それがためにこれを「性」というのです。
  この事は、中国の古人も、よく真の道に眼がついた人は、いち早く言っておいたことで、中庸に「天命之れを性と謂い、性に従う之れを道といい、道を修める之れを教えと謂う」とあります。この意味は、人間に生まれますと、生まれながらにして、仁義礼智というような、真の情が自ずから具わっています。これは天ッ神の御与え下されたもので、すなわちこれを人の「性」というのです。この「性」の字は生まれつきと読む字です。さてこれほどに結構な情を天ッ神の御霊によって、生まれながらに持っているのですから、それなりに偽らず曲がらず行くのを、人間の真の道というのです。又その生まれながらにして得た道を、邪心が出ないように修め整えるのです。身近にたとえるならば、我が国の人は自ずから、雄々しく強く正しく直に生まれついています。これを大和心とも、御国魂ともいうのです。しかしながら他の国々の小賢しい教えや、或いは祖国を忘れ外国を慕うような、生まれながらでない情がつきますと、それを説き導き、いやそうではない、こうではないと、元の「性」に思い返し、思い直させるのを教えというものです。

  まずこのような事情で、なんと真の道というものは、このように安らかなもので、返すがえすも半可な真似や、心法だの、悟道だのというような、佛くさく、なまいきなことは、サラリと止めて、どうぞこの大和心、御国魂を、曲げず忘れず修得し斉えて、真っ直ぐ正しく、清くうるわしい大和心に、磨き上げたいものです。
   古人の歌に「武士の取り履く太刀のつかの間も、忘れじと思う大和魂」とありますが、この歌の心は、武士たる者の、常に腰を離さずにいる太刀のように、身に引きそえて、又束の間もというのは、直に太刀の束にかけて言って、少しの間もということで、少しの間も大和心を、忘れまいと思っている、という意味です。

 又我が鈴の屋の翁が、自らの画像の上に書かれた詩に「師木島(しきしま)の大和心を人とわば、朝日ににおう山桜花」と詠まれたのです。まず師木島というのは、昔から大和と言うときの枕詞です。歌の意味は、もし人が私に、「君の心はどうでありますか、又大和心というのはどのような意味でございますか」と質問したならば、答えて、「大和心というものは、春山の山桜の大変に美しく咲いている所へ、朝日がさし上がるままに、その花へキラキラ映って、照り合うようなものです。また私の心もその通りでございます」と答えると言われたのです。なんとうるわしく潔く、色合いがあざやかで美しいものが多い中に、これ程うるわしいことはあり得ないのです。くどいようですけれども、元より我が国の人は、皆んな下の心に、このうるわしく潔い心を持っていますけれども、大方は外国どもの心に移り、その本心が曇っているのです。これをどうぞ磨きだして、元のうるわしい心になりたいものです。この大和心、御国魂の磨きが足りませんので、辛抱がぐらつきますと、諸事の心得違いがここから出来るのです。「本立ちて道生(みちなる)」と、唐の人(孔子)が申したのも、ここいらにかかっているようです。
         
 さてその大和心の磨き方はといえば、我が翁の著された書物を読むに及ばないのです。しかしながら日々の仕事が忙しい方々や、歳取った人などは、それも出来ないでしょうから、そのよく大和心を心得た人について聞くのがよろしいのです。これはどちらにしても、行き着くところは同じことで、「家ノナリナ怠りソネミヤビヲノ、歌は詠むとも書は読むとも」と鈴の屋の翁は詠まれたのです。また翁の書かれたものに、「心さとく心直き人は、善いことを聞けば速やかに悟り、心遅く心直くない人は、悟っても人に負けることを嫌って、得移らず得おもむかずとて、生の限り、枯野の草の、去年の古殻旧きになずみて、浅ミドリ春ノ若葉ノ、ウラ細シキヲバ、摘コト知ラズテ朽ハツメリ」。と言われましたが、これは実にこの通りのことで、世間に学問するという人は、おびただしくいますけれども、とかく悪い癖があってどうにもなりません。その癖というのは大抵の学者にはあることです。
        
 よく世間で言うことですが、「目を卑しめて耳を尊ぶ」という種類の人が多くおります。つまり、外国人の言ったことや、古人の言ったことばかりにかかずらわり、それに行きなやんで、我が我が国の人や、また最近の世間の人の言ったことを、善い説でも善いとは言わず思わない。又これは善いと思うことでも、やっぱり先入観を改めず、負けじ魂に毛を吹いてキズを求め、欠点を探して言い破ろうとして、その心がやがて学問の道に背いていることにも、気がつかないでいる人がしばしばあるのです。
   このことは、唐の人なども、悪いことだと申して、『論語』には三、四もの章で戒めています。しかしながら、その善いことも知らない内は、それは仕方がありませんけれども、いやしくも学問に志のある人は、この心がけを常に忘れないで、気をつけられたならば、「改めるに憚ることなく」、速やかに先入の悪い癖を清く捨て、あの翁が言われた「去年ノ古カラヲバ手折ラズニ、ドウゾ春ノ若葉ノウラ細シキヲ摘デ」お互いに、真の道をたどるように致したいものです。又自分ばかりでもなく、人にも語り聞かすのが、これも人間の真の道です。すでに唐の人すら「朝に道を聞いて、夕べに死すとも可なり」と申して、真の道を聞くことが出来たなら、朝聞いて、夕方に死んでもよいと思うほど、嬉しいということです。唐の人すらこの通りですから、この道、この我が国のありがたさを覚えては、人にも語り聞かせずにはおられますまい。これは及ばずながら、篤胤が人にも勧める理由です。

   これが則ち天ッ神国ッ神への神忠で、これが則ちおそれながら、天皇また大将軍家の御厚恩をおろそかに思い奉らない一端で、これが則ち両親に生み出され、育ててもらった恩返しで、直ちに人間の道であろうと存じます。どなた様もそのお心得で、どうぞ将来とも捨てておかないで、道の学びに、怠りがないように、励み勤められるのが第一のことです。
            

                                                            


  完 結








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