■現代語訳:霊の真柱(第五図)

平田国学の宇宙生成論!!
     第 五 図
(イザナギ・イザナミその1)

   古の伝えに曰く、そこで、天ッ神の諸々の神々のお言葉で、イザナギノミコト・イザナミ ノミコトのお二柱の神に向かって、「この漂える国を、造り固めなされ」と仰せられ、アマノヌボコをお授けになり、ことを委ねられたのです。
  そこで、お二柱は天の浮き橋にお立ちになり、そのヌボコを下に向けて指し下ろして、流れ漂っている青海原を、コヲロコヲロと掻き回し掻き鳴らして引き上げなされました。その 時に、ヌボコの先からしたたり落ちた塩が、重なり積もりに積もって島になりました、これがオ ノゴロ島です。
   その二柱は、その島に天降りなされて、天ッ神より賜ったアマノヌホコ突き立て、国の御 柱として見立て、また八尋殿(やひろとの)を見立てなさったのです。故にそのヌホコは後で小山となりました。
   
これより次々の図には、天に成坐す 神、地に成坐す神たち、その図に用があるときのみ挙げて、絵は省く。
  三大考には天と地と、この時なお連 なりたる状態に書けるは間違いな 理由は下に記す。
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●この天ッ神の諸々の神々のお言葉で、お二柱の神に、「この国土を固めなされ」と仰せられた時は、天と地とは既に切り離れた頃のことで
す。それはどうして分かるのかといえば、天ッ神のここでのお言葉によって知ることができるのです。それは、天ッ神の諸々の神が、高く天上から見下せば、この国土の漂える様子がよく見えているお言葉だからです。「この」と指さされたことによって明らかなのです。もし、この時もなお、天と地が切り離れていなかったら、その根とある国土が漂っているとすれば、天も共に漂っているべきなのに、どうしてこの国土を指して「この漂える国」と仰せられるのでしょうか。
   さて、天と地が切り離れてから、二柱の神は「天の浮き橋」でご出立して、「浮き橋」にお立ちになって、青海原を掻き回されました。

(「浮き橋」のことは、『三大考』の説とは大きく異なることは、第十図の下に詳しく述べます)

 ●青海原とは、やがて天ッ神が「この漂える国」とお指しになったもののことであって、それはこの国土の生まれたばかりの頃の呼び名の理由でもあります。また青海原という言葉の意味も、古史の伝えに言われ
るとおりです。

 ●二柱の神に、諸々の天ッ神がお授けになったヌホコとは、「玉鉾(たまほこ)と言うように、玉でもって飾ってある矛である」と師が言われたとおりです。
(ただし、古はこのような物にも玉を飾るのは通常のことであって、ただ何とない飾りと思われますが、未だに詳しくは分かりません)
さて、その玉を飾ることには、不思議な理由があります。それは五柱の天ッ神
特にムスビノカミのムスビの御霊を、二柱の神にお授けになり、国生みを成功させようと、その御璽(みしるし)のお祝い物に飾られたものです。                   

(これは、私が確かに考え得た説です。それは第八図の下に挙げてある、イザナギノミコトが天照大御神に、御頸珠(みくびたま)をお授けなるところで詳しく申しますので合わせてお考え下さい)

 ただしこれは、玉を飾るだけでよいものを、その御矛(みほこ)をお授けになることは、その矛で浮き雲となって固まっていない青海原を、掻きならして衝き立て、中心(なかご)の固め柱としなさいとのお計らいなのです。だからこそ、二柱の神が、掻きさぐられ、自然(おのずから)に固まり出来上がったのです。そのオノゴロ島に衝き立て、国中(くになか)の御柱となされたのです。そうですから、この大地の中心は、このお授かりになった御矛(みほこ)の先なのです。
(このようにして、その柄の方は、小山となったのです)

   彼の、天となるべき物は萌え上がって去り、泉となるべき物は垂れ下り、大地となるべき物の、なおフアフアとして、固まらないのを、この御矛(みほこ)を衝き立てなされることによって、締まり固まったのです。天ッ神からお授かりになった物も多い中に、矛をお授かりになったことは、大変に不思議な、深い理由がないはずはありません。
(古には戦の出発の時に、矛を授かることもこの謂われによるものです)
                               
 そうですから、この地球が広大である中で、我が御国は国土の大本であります。またオノゴロ島は、この大地を固めた、御柱たる所になります。                 
(一つの伝えに、「オノゴロ島を国中の御柱となす」とあるのも、これで分かります。漢(から)の書にも「天柱坤軸などというのも、この古伝が訛り伝わったものと思われます)

 ●『オノゴロ島日記』に、「この島は淡路島の西北の隅にある胞(えな)の島であり、俗に胞島(えじま」と呼び、またオノコロ島の名を残しています。この島の岩に丸く玉のように湧き出た石、何千と数知らず、その表面には金気で包まれ、土砂を含む、まことに金輪でもって地輪をちりばめた形です。その外に産ダライ、釜、杓子などという、世帯道具の形、みな自然石に具わり、島の風景、樹木の葉色、岩の滑らかなること、画にも書にも表しがたいのです。その地方にセキレイ島があり、二神の『交わりの道』を見られる跡が残っています。そのほとりに、式という岩屋の神社があります。この島を昔より魔の所と言い伝え、「恐れ登る人がないようにと申し伝える」とあります。これは、最近近江の人から聞いたものを、重要な所だけを記したのです。
             
その玉のように湧出した物を、あの御矛に飾ったもので、御祝玉(みほぎたま)のことです。また昔より魔の所として人を登らせないのは、神の威のはなはだしいことを、一般の人はそのように言っているのです。

「大地の大御柱(おおみはしら)ぞ、夜の人よ、おほにな思ひそ、おのごろ島を」

 「この柱かため坐(まさ)ずは、世にありと、ある事物(こともの)の成り出(いで)めやも」

   いかにも、我が国の地勢が堅固で、また生まれる人も、何もかも、万国に卓越していることを、よくよく思うことです。考えることです。

 (なおこのヌ矛(ほこ)のことについては、言い表すのも困難で不思議なことの、知り得たことを『古史伝』に述べてあります)
  

     


jundoのヤタの図









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