■現代語訳:「古道大意」(7)


完全現代語訳:古道大意・・・出雲の大国主神登場!!

下巻 3-1 

  「神代の伝説の正しさ」

  さて先日の講説に申したとおり、世の始めに大虚空(おおぞら)の中に漂った「一つの物」より、葦の芽のように萌え上がって「天(あめ)」になりました。その天の根となっている「一つの物」の底にも、また「一つの物」が垂れ下がり、それからクニノトコタチノカミトヨクムヌノカミとがお生まれになったのです。その垂れ下がった物を国(ねのくに)とも根堅洲国(ねのかたすくに)とも申しましたが、これが後に切り離れて、今眼の前に見える「月」となったのです。

  さてその「天」は、その萌え上がりの初めより、澄み明らかな物であったところに、今また天照大御神がお治めになられて、その御光が照り徹(とお)ってますます明らかなのです。

 さて、この天照大御神が高天原(たかまがはら)をお治めになられたお伝えを、世の神道学者などが、「天と言うのは都のことで、すなわち天照大御神を天子の位につけたことを、天へ送り上げたと言うのだ」などと、小賢しいことを言いますけれども、みんな心にまかせたざれ言です。天ッ神(あまつかみ)のお伝え、古の天皇命(すめらみこと)の篤(あつ)いおぼしめしで、正しくまことをお伝えされた神の事実を紛らわせた、その罪は軽くないのです。

  さてツキヨミノミコトを、夜の食国(おすくに)を治めよと仰せられ、「月」を治める神となされました。ここにおいてイザナギノミコトは、初めにタカミムスビノカミより勅命をお受けなされ、ご功績をたてられたために、すなわち再び天にお上りなされて、その功績をミオヤノカミへ申し上げられ、この後永く天上にある、日の少宮(ひのわかみや)にとどまっておられました。

   さてこのイザナギノカミの御目より、月日の神のお生まれになられたということと、よく似た説が、中国(漢)の古い伝説にもあるのです。それは天地の始めの時に盤古(ばんこ)氏という者が出て、そ盤古(ばんこ)氏の左目が日となり、右の目が月となったなどという説があるのは、これは我が国の古伝説の受け売りながらも、中国(漢)にも伝わり残ったものと見えるのです。                               
 ただし、ここに一人私の説を非難する者がいて申すには、「先刻から承るところが、神代の事を講説されますのに、随分外国の似通った伝説を引き合いに出して申されますが、まずそのように外の国々にも、我が国の古伝説と同じような説があっては、我が神代の伝説が正しいとも言い切れますまい。なぜなら、もしその外国の人々が、一つ所に集合して、各々その国の古伝説を語り出したときに、どの国も我が国の伝えが正しい。我が国が本だ、我が国は日の神の御本国だなどと言い争ったなら、誰がそれを判断して決めることができるでしょうか。なんと天地の始めの時より、生きている人はありはしまい、それに外国の説は誤りで、我が神代の説ばかりが正しいと言うのでは、我が家の本尊が尊いと言うようで、えこ贔屓が過ぎるようですが、どうでしょう。又そのように紛らわしい説が、ここにもかしこにもあっては、いずれが正しいとも過ちとも、定めがたいことですから、神代の事をもひっくるめて、まずは信じない方がましではありませんか」と非難したのです。                                        
 何とこのよう非難されたのでは、周りから見ては、ちょっと困るだろうと思われましょうが、一向に困るわけではないのです。ここがかえって学問の徳が見えるところで、則ちこれに答えて言えば、まず右のように紛らわしいところも、学問の眼をもってすれば、その真偽たちまちに見分けられることです。
  
 これを身近なもので例えれば、定家卿(ていけきょう)が小倉山の山荘で書かれたのは、本より一首が一枚づつでなければならないはずのものですが、ところが管家の歌にしても、蝉丸(せみまる)の歌にしても、その一枚づつあるべきものを、十人が持っていて、各々これが本物だ言い争っています。ここでは大変に紛らわしいようですけれども、古筆鑑定と言うようなよく目が利いた人は、それをことごとく見分けて、十枚の内から一枚の本物の色紙を見い出すのです。ちょうどこんなもので、それを見分けることができず、おしなべて偽物であろうと捨てるのは、それは利口のように聞こえますけれども、見分ける眼が備わっていませんので、未だ熟練者ながらも、行き着くところまでには至っていないというものです。そうであれば神代の伝えが、外国にも似たような説があるのでは紛らわしい、と信じないのもこれと同じことです。

  その選び分け見分けることを、今一つ身近なことで例えれば、米の商売をする者などが、米を見分けますのに、五カ国十カ国の米を混ぜ合わせたものを、ひとにぎり見せますと、これは美濃の上米、これは仙台、これは九州米と言うように、一粒々々より分けるのです。素人が見てはどうも嘘らしく思うのですが、そのより分けたところを見ますと、なるほど米粒の形がそれぞれ違って、間違うことはなく、ここで素人どもは全く閉口するのです。                                 
 学問もそのように、よく公に学んだ、その精密な、古と今に通じるべき眼をぐっと見開き、事実と古に照らして考える時は、この位のことは何の苦もなく分かることです。だから我が神代の古伝説は、例え外国に似た伝説がいくらあったとしても、自ずからの事実に照らしてみれば、不動のことです。

  しからば、なぜその誤りがちな外国の説を引用するのかと言えば、これが足代(あししろ)というものです。足代(あししろ)とは、小賢(こざ)しい人で古伝説を疑う者を諭すには、誤りであっても、外国にも似た事があることを引いて聞かせれば、考え合わせて、さては諸々の国々が言い合わせたように、このような伝えがあっては、いずれこのことはあったことに相違がないと言う心がまず出来上がるのです。その心が出来上がった上では、其れと之とを考え合わせて、諸々の国に言い伝えのある説の中で、ことさら我が国の古伝説が真実だ、なみなみならないことですと、疑いが速やかに晴れる人も、時々あるものです。                  
 外国の似た説を引くのは、真実を知らしめるためであり、真実を得た上では、もはや外国の引用は無用となっていらないものです。
  これは佛書の譬えですが、月のありかを教えようとするには、指を差し上げて、アレアレあそこだよと言って教えはしますが、その人が月を見つけた時には、その差し教えた指は、もういらないために引いてしまう。ちょうどそんなもので、外国の似ている説を引用するのは、我が国の古伝説を見つけさせようと、指さしてお教えする指だと思われるがよろしいのです。

  
 「オオクニヌシ・(オオクニヌシ」

  さてイザナギ・イザナミの二柱の神様が、始め天ッ神(あまつかみ)の勅命をお受けなされて、オノゴロ島へ下りて、大八島国(おおやしまのくに)を次々に御生みあそばしたことを、このようにかいつまんで百分の一を申したのでは、事実は分からず、わずかばかりの年数のようにも聞こえますけれども、神の御寿命は、はなはだ久遠(くおん)と言って長いことで、実は計り知れないことです。それ程年数が積もったことではあるけれども、なおこの時までも未だちゃんと我が国が出来終わってはいないのです。しかしながら種々の神々を、御生み置きなされたのですから、だんだんとその子孫が増えました。                                 
 その中でもスサノオノカミのお孫が大変に勢いがあって、特にオオナムジノカミと申すのははなはだ勝(すぐ)れた神様で、ご兄弟が八十柱おられました。始めはこのご兄弟の神々のために、あれこれとお難儀なされましたけれども、夜見の国(よものくに)におられるスサノオノカミのお計らいによって、ついにその多くの神々をお従いなされて、すなわちこの我が国をお治められました。又の名をオオクニヌシノカミ(大国主)申し上げるのも、この我が国をお治めなされたからです。御子たちも多くおられて、その中でも第一がコトシロヌシノカミと申し上げ、神祇官(じんぎかん)の八神の一方(ひとかた)です。又アジスキタカヒコネノカミ、これはタカカモノカミでございます。又タケミナカタノミコトと申すのは信濃の諏訪におる神様で、いずれの神様もお威勢が強かったのです。

   さてこのオオクニヌシノミコトはお名前を数多くお持ちなされたために、オオナモチノカミとも申しますので、オオナモチが転じてオオナムジと言うようになったものです。さてオオナムジノカミがあ「八尋矛(やひろのほこ)」と申す厳めしい「矛」をおつきなされて、スクナヒコノカミとお力を合わせて、この我が国を経営なされ、イザナギ・イザナミノカミの、なし残された事どもを大いに片づけられたのです。なおまたクスリやマジナイの道をも、この二柱の神のお始めなされたことです。これについては「医道の講説」の時に申し上げるつもりです。
                   
    さてここに天照御大神は、イザナギノカミの命のままに、「天」の君としておられて、タカミムスビノカミ・カミムスビノカミとともに、「天」のことは申すまでもないことで、天の下の事にも、全ての隅々まで、お恵みをかけられました。                   
 そして仰せられるには、葦原の中ッ国は、我が御子が治めるべき国であると仰せられ、その御子神のオシホミミノミコトへ詔(みことのり)があって、この国を治めよと仰せられたのです。
     
 このアメノオシホミミノミコトと申しますのは、以前スサノオノミコトと天照御大神とが、玉と剣とを以てお誓いなされました。(世の神道学者などが 、「剣玉の誓い」と言って、例の秘事口伝(ひじくでん)と言って騒ぐのはこのことです。)その誓いの上に御生まれになった神様で、則ちタカミムスビノカミの御娘、トヨアキツシヒメノミコトの御子、タマヨリヒメノミコトを配偶者となされ、その御生みなされた御子の御名をニニギノミコトと申し上げるのです。このような訳ですから、このニニギノミコトは天照大御神には御正統なお孫で、タカミムスビノカミには御ヒコ孫に当たります。そのためにこのニニギノミコトを皇孫命(すめまみのみこと)と申し上げます。又天孫(てんそん)と書くのも同じことです。                 

 さて以上の通り、我が国は、彼の御威勢の強いオオナムジノカミのお治めになっているところへ、これより上がない天照大御神、タカミムスビノカミの御意とは申しながらも、別格に君を天下しあそばしたことについては、ひととおりの訳では参らないのです。天において、あの大祓の詞(おおはらいのことば)、俗に言う中臣の祓(なかとみのはらい)にもあるとおり、八百万の神達を、神集(かむつど)いに御つどいあそばして、いろいろと御評議があったのです。

   ところがココトムスビノカミという神の御子にオモイカネノカミと言う神がおられて、この神は大変に思慮深い神で、簡単に申せばお知恵の優れた神であるために、アメノホヒノミコトを使わしてお尋ねになったのです。このホヒノミコトも、実は天照御大神の御子で、堪忍強く御辛抱なされ、事を為し遂げる御性格の神様であったために、彼の御勢いの強いオオナムチノカミの御心が和むよう、御納得されるよう、かれこれと手をつくされました。それが三年程もかかったと申すのです。

  ここで、またまた御評議があって、アメワカヒコを御下しなされ、武威をもってオオナムジノカミが御承知なされるようにと使わせましたが、アメワカヒコは却ってオオナムジノカミの御娘の下照姫を娶って、自分がこの国を治めようと構えて、これも八年程も御返事をされなかったのです。それだけではなく、天ッ神より御催促の御使いに遣わされたキジシナナキノメと申す者を射殺しなどしたのです。
      
 ここで彼の名高いタケミカヅチノオノカミ、フツヌシノカミと申す、武勇絶倫と類なく勇ましい神の二柱を天下しなされて、彼のホヒノミコトのオオナムジノカミを御和みなさるのと、タケミカヅツノオノカミとフツヌシノカミの武勇とで、とうとうオオナムジノカミは御承知なされ、ついにこの国をニニギノミコトへ禅譲なされることになりました。                              
  
  「出雲の国の大社」

 そこで仰せられるには、「出雲の国に天皇の宮殿同様に宮殿を造って、私を御祭り下さるならば、そこに鎮まりおって、幽事(かくしごと)と申して、世の有りとあらゆる事の、隠れて現在の目に見えない事どもを主宰いたしましょう。又ニニギノミコトは長くこの御国を御治めなられて、天の下の顕事(あらわごと)と申して、世の中の目に見える事どもを、御治めあそばせ」と仰せられたのです。そしてあの天下を経営なされる時におつきあそばした「八尋の矛」を御譲りなされて、「この矛は我が、天の下を治めたる功のある矛ゆえに、皇孫命(すめらのみこと)がこれを以て国を御治めあそばしたならば、必ずや安らかに治まろう」と仰せられたのです。   
                                                    
 そこでタカミムスビノカミ 天照大御神もごもっともとおぼしめされて、その仰せの通りに出雲の国の多芸志(たぎし)小浜(おはま)という所に、非常に大きな宮殿をお造りなされて、そこにオオクニヌシノカミは長く御鎮座なされたのです。この宮殿を杵築(きつきのみや)の宮と申して、則ち今の出雲大社(いずものおおやしろ)のことです。又あのアメノホノミコトは、オオクニヌシノカミを御和みなされた、いわばお気に入りですから、お使い神となされたのです。則ち今の「国造」と言うのは、正確には「国のミヤッコ」と申すべきであって、このアメノホノミコトの子孫に、連綿と相続されましたので、なかなか以て一通りの家柄ではないのです。

  以上のわけですから、今の現実にも、世の中の幽事(かくしごと)と申して、隠れて目に見えずに行われることは、全てが出雲大社の御計らいであることは、議論のないところです。

  玉鉾(たまほこ)百首』に「顕(あらわ)にの事は大君、幽事(かみこと)はオオクニヌシノカミの御(み)ココロ」と詠まれたのはこの意味で、俗の諺に「十月は神々が、出雲の大社へお集まりなさる」とか、或いは「縁ムスビをなされる」などと言うが、これらはたいへんに古くから世間で申していることです。それを古い学者達が、あれこれと理屈を言って無いことにしたがりますけれども、篤胤がひそかに思うには、あの「天もの言わず、人をして言わしめる」と言うように、神の御心として、世にこのように言いふらしたことで、誠にこの通りに違いないと思わされる事が、今の世にも大分あるのです。

  なにはともあれこの神は、世の人が特別によくお奉りしなければならない神様です。なおこの神様の御徳を、人たる者は、おろそかに思うべきではない理由は、『古史傳(こしでん)』や『玉襷(たまたすき)』と申す別途の本に詳しく書き置いてあります。
                 



 下巻 3-2に続く




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