■現代語訳:「古道大意」(11)



完全現代語訳:古道大意・・・日本人とは、蒙古襲来!!

下巻 4-2
「日本人の気性」

 ある人が言うには、日本人は大胆と言ってよいでしょうか、英雄と言ってよいでしょうか、めっぽう強い気性があります。それはなんだかと言えば、敵のために打ち負けますか、もしくは敵をねらうことがあって、それを報いることがなりませんと、ここで少しもたじろがず、いわば平気で、自身で腹を掻き切って死にます。事に臨んで命を畏れないことです。又日本人はめっぽう豪傑だという証拠になるべき事は、あの七人の若者が台湾の国で、とんでもない豪傑な振る舞いをして、こちらの国々の肝をつぶさせたことがあります。と言って、浜田彌兵衛らの働きのことも書いてあります。
                     
  これは寛永の頃のことで、その頃は我が国からも勝手次第に外国に船を出したもので、長崎の代官の末続平蔵と言う人が、インドの方へ交易の船を出したのです。ところがその頃、台湾はオランダのものであった時で、その末続氏の船を、オランダの者達が出てきて嘲弄し、あげくには積み荷を奪い取ろうとさえしたのです。さてこちらの船の者もはなはだ憤りましたけれど、向こうは大船でしかも武器鉄砲などをもって、プスプスやっています。こちらはただの交易船ですから、はかばかしい兵器はありませんので、無念さをこらえて、さまざまな上手を言い、いろいろな物をやったりして、辛くも長崎に逃げ帰りました。しかし、このことが無念で堪えられないために、そのことをありのままに末次氏に申し上げたところ、平蔵は大変な大和心の強い人であったために、ムッとして大いに怒り、「にっくき野蛮人どものふるまいよ、私に計りごとがある、見ていろよ。この後我が国の船にその国の者どもが、指も指させないよう、目に物を見せてくれるぞ」と申して、支配下である町内の浜田弥兵衛、弟の新蔵という剛強の者を呼んで、このことを詳しく語った。
        
「あの野蛮人どもが我が船に不届きをいたした。私の意趣に似ているが私ごとではない。その訳はまず第一に、万国に英雄豪傑の国と賞賛されている、このお国の恥となることだ。この後又いかなる不届きを為さないとも計り知れない。ゆくゆくは外国に船を出す妨げとなることであるから捨て置かれない。彼らの目に物が見えるように、何分よろしく頼む」と話しました。この両人は元から大和心の偉丈夫で、このような事に当たっては、なかなか五分でも引く気のない者どもですから、「それはたやすいことです。あれこれの手段を用いて、彼らの肝っ玉を抜いて参ります、ご安心ください」と言って、心やすく請け負いました。
 
 弥兵衛の子の弥左右衛門、外に四人、都合七人の豪傑が商人になりすまして出立しました。白物を積み入れ、かねて航行し、海路は熟知していますので、大船の舵をとり、烈風に帆を上げ、数日のうちに台湾の国に着船し、交易のことを申し入れたのです。ところがその国の者も、初めは心を許さなかったということでした。しかしながらよく準備をしたことですから、怪しい風にも見えない、そこで国王へそのことを申し上げたのです。
   その時の国王は、オランダより派遣された、先に申した代官で、名前はヒイトルモイツという者でした。何の疑い心もなく対面し、その交易の物を吟味し、値段づけなどしているところを、弥兵衛はよき頃をみはからって稲妻のごとく飛びかかり、その国王ヒイトルモイツを取り押さえ、ひざまずかせ、懐に隠し持った脇差しを抜くより早く胸先へ差しつけました。また弟の新蔵と息子の弥左右衛門の両人が、同じく抜き放って立ち上がったのです。これを見ると、側近の夷たちは、逃げ出す者あり、いやこれは大変とピイピイパアパアと大勢が騒ぎ、縁の下に駆け込む者もあり、泣く者もありました。そのうちに外にいた四人も脇差しを抜いて駆け入ります。城中の騒動というばかりでなく、実に大潮の湧くようであったと言うが、そうであったことでしょう。しかしながらその七人の豪傑どもが刀を抜き持って、その勢いが猛烈なことに恐れ、しかも少しでも敵対したら、ヒイトルモイツが直ぐにも刺し殺されそうですから、寄りつくこともできませんでした。国王を助けようもないため、ただパアパアと言って、肩で息をついています。

  ところで弥兵衛は、その国の言葉も達者でしたので、大地にも響く大音声を発し、まず「静まりおれ!」と叱りつけました。こんどはしとやかに、先の不届きな始末を咎めました。国王は大変に震え恐れて詫び言を言いました。
 「又その者どもはただ今は外国に行っていますので、帰り次第重い刑を行って罪を詫びますが、それまでは人質に我が一子を上げておきますから、どうぞわが命は許して下さい」と言って、十二歳になる男子を差し出し、     
「今より先は、貴国の船へ指さしもさせない」と、海山かけて誓を立てましたので、弥兵衛は、その国王を許し、人質の男子を引き立て、我が船に乗せ、長崎へ帰ったことがありました。このことが大きく万国の評判になったのです。

  
  蒙古の襲来と神風」
  またある人が言うには、「日本の地が自然に堅固で、かって外国からの侵攻を恐れる必要がありませんでした。希にあの蒙古の世祖などのように、日本を攻めた者もあるけれども、とても勝つことができませんでした。世祖が萬将軍という者に大小の船の数が三千五百艘に、軍士二十四万人を授けて、日本を攻めにやったところが、沿岸に着くと暴風が激しく吹いて、それほどに強大無敵な軍船及び船中の軍兵、ことごとく打ち砕かれた」ということも書いてあります。これも相違ないことで、北条時宗が政事を執った弘安四年のことで、この世祖というのは、蒙古という国から出て、唐を攻め取り、その勢いに乗って、我が国を属国にしようとして、たびたび降参せよと言ってよこしましたけれども、お取り上げなかったところ、猶しつっこく言ってよこしたために、その使いに来た者の内、主なる者達を、皆鎌倉の由比ヶ浜へ引き出し、首を打ち切って、獄門にかけられたのです。ところが残りの者達が帰って、そのことを申したところが、彼(か)の誇りに誇って勢いの強い蒙古のことですから、大いに腹を立て、このとおり攻めて来たのです。

   その時伊勢の大御神を初め、諸社へ勅使を立てられ、お祈りもあったところが、伊勢の風の宮のあらたなるお告げがあって、大いに神風を吹きおこし、その船どもを一夜のうちに吹き覆してしまったのです。その時の不思議な事には、白衣をまとった神人の船が、その大風の中に現れて大いに働いたということです。これはどこから出たとも知れず、きっと神々のなされたことでしょう。この時攻め来た軍勢の内、生き残って帰った者が、ただ三人であったということです。これはあちらの方の書物に書いてあります。これも不思議なことで、その神風の恐ろしいことを、その王に言い聞かせるために、やっぱり神のお計らいと思われるのです。そうでなければ二十四万の軍兵、三千五百艘の船が一艘も残らず、ひっくり返る程のことですのに、三人ばかり生き残っていようはずがないのです。
  ここにおいて、さしもの世祖もこりごりして、再び手が出ないようになったのです。これがまた外国へ広く知られて、どこの国でも話されています。そのために西洋の書物もこのとおり恐れているのです。

 
 「武勇の日本人]
  さてまたある人が言うには、「日本人が戦場に出ては、勇敢謀略を残すことなく、軍法正しく、よく大将の命を聞いて、進んで戦うことを悦んで、その図を外しません。これらは私が言うまでもなく、後の世になって、自然と万国に明らかになったことから、日本人を恐れ敬うこととなったのです。また世の習いとして、とかく太平の世が長らく続くときは、人が柔弱になるものですが、日本においては、そのように柔弱には決してならない訳があります。それは国民が常に故人の武勇を慕って、それを不断の心得としています。また子を育てるにも、その泣くとき、又は常にも昔の勇士の物語を話して聞かせます。とかく武勇を主に教訓として、幼いときから、心に染みついて、忘れさせないようにする」と申したのです。

  これらのことは実に外国人ながらも、よく気がついたことで、日本人が全く気がつかないでいることで、いかにもこの人の言うことに違いなく、よく気がついたというものです。今の世もそうですが、昔から子供だましの一つ咄の金太郎と言うのは、山姥の子で、熊やオオカミを引き連れたとか。或いは源頼光は大江山へ行って、四天王の人々とともに、酒呑童子という鬼を退治したとか。俵藤太秀郷がムカデの王を射殺したなど。また桃太郎が、日本一のキビ団子を食べて、力がついて鬼ヶ島を平らげたとか。とかく子供の内から、武勇になるためだと見えて、勇ましいことばかり言って聞かせます。また近頃の草双紙には、三、四十年も前までは、目玉が大きくて、腕や脛にフシコブが立った武者絵の冊子が多かったものです。これは古人が深く考えて為したことでしょうけれども、我が国の人は自然に雄々しく強く、勇ましいことを好むためで、いかにもこれらは結構なこと、ゆくゆく万々歳なこと、このようにありたいものです。
           






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