■現代語訳:「七生の舞」(6)

現代語訳の平田篤胤:仙境異聞のうち「七生の舞」


篤胤の解説

  吉が山で師匠の山人と呼ぶのは、高山嘉津間と言ってます。山人とは「仙人」の和語であり、古い神楽歌や万葉集などに詠まれています。寅吉の師匠などは自ら山人と称しています。古いことばが残っているのです。

 

 そもそも「仙人」は中国にのみあるのであって、我が国ではないのだと思うのは、見聞が狭い人の心であります。我が国でも古くより「仙人」が多くいたことは古書の中に数多く見られます。その中には「神仙」があり「佛仙」があります。またその中には、現世の「」や魂だけの「」などもあり、その差別はここでは言い尽くせない。(中国の書に、仙には天仙と地仙と尸解仙の三種類があると伝えてあります。我が国の仙人にもこの差別があるのです。)

 

  世に天狗だといわれるものは、右の山人たちを言うことが多い。ここかしこの海山などにて、目にも見えず、聞いたことのない音楽があるのを、世の人は天狗ばやしと言うのです。

 あまり古くない昔にもそのように言ったものとみえて、「空穂物語」の俊蔭の巻に、「遙かなる山に、だれにかもののしらべが遊んでいたら、天狗がするにこそあらん」云々とあります。これはつくり話ですが、この頃すでに、このようなことがあるがため、このような書があるのです。

 また神社には音楽が聞こえるのは、「日本書記略」に、天延二年五月七日、近江の国解に、「兵主三上神社、去る三月より太鼓を打ち、鉦の声が終日絶えず」とあります。

 長明の「発心集」に「奈良の松室というところの僧のもとにいる子どもの、仙人になって去ったが、師匠に語って、「三月一八日に、竹生島に仙人が集まって舞楽をすることになっている。琵琶を弾くことになっているから貸してくださいといって、借りていきました。師匠の僧が三月一七日に竹生島に詣でました。十八日の暁のねざめに、遙かにえもいわれぬ音楽の声が聞こえ、雲に響き風にしたがって、通常の音楽にも似ない大変なうるわしさに、涙を流しながら聞き入った。ようやく近くなって音楽が止まりそうになって、下に物を置く音がしたので、夜明けになって見ればありし琵琶であった。不思議な思いで竹生島に奉る香ばしき香りが深くしみ込んでいて、日頃見えなくなっているこの琵琶、今は竹生島にあって、浮いていることではないと思わ

れます。(この文はたいへん切りつめて述べているので、詳しくは本書を見てください。このことはまた「三国傳記」に記して伝えてあります。)

 

  また近頃のものですが「諸国里人談」という書物に、享保のはじめ武州と相州の境の信濃坂に夜ごとに囃しものの音があり、笛や太鼓など四五人の声がして、中の一人は老人の声です。近郷の江戸などからこれを聞きに行く人が多いのです。十町四方に響きわたって、始めはその場所が分からなかったが、次第に近く聞きつけ、その村の産土神社の森の中であった。たまには篝火を焚くことがあった。翌日に見れば、青松葉の枝の燃えのこりが境内にあった。あるいはまた青竹の大きさが、長さ一尺あまり、節をこめて切ったのが森の中に捨ててあった。これはそのままに置こうと里人は言いあいました。

 ただ囃子の音のみであって、何の禍いもなかった。月が経っても止まないで、夏の頃から秋冬にかけてこのことがありました。次第次第に遠ざかって、三日五日の間、それからは七日十日の間となりました。始めのうちは聞こえる人も多くて、さして心に止まることもないのですが、後の方は自然に恐ろしくなって、翌年の春の頃は、囃子のある夜は、里人も門戸を閉じて、戸外には出ないで、物音も高く出さないようにしました。春の終わり頃になるといつとなく止まるのだった。と言っておりました。


 

  また、駿河の国府中の人で、新庄仁右衛門道雄が申しますには、阿部郡の龍爪山という山に、龍爪権現という神の祠があって、この山奥に時々お囃子を聞く者がおりました。楽器は鈴と太鼓とドラと笛などで、時には三味線の音のような楽が交じる時もあったと言います。

 

  また、同郡三輪の郷、下村の山に、福生大明神という神社があります。この森で時々音楽を演奏することがありました。ある男がその音楽を聞き終わった後に、その場所で革の一重張りの太鼓のようなものを拾ったことがあったと言っております。    

 

                                

  このようなことを合わせて考えれば、仙境には現世には絶えてしまった様々な楽事が伝わっているようです。またそちらの世界で作る楽事はさらに、今ある様々な楽事をも演奏すると知られております。

 

 なお「七生の舞」のことについては、いろいろ知り得たことがありますが、それは別に詳しく記してあるのでここでは省略します。

                         文政五年二月一日

 

 

 

 

 

         追 記

 

  去年の八月二八日のことでした。土佐ノ国の殿人で、谷丹作正兄というお方がお出でになりました。寅吉の師匠の山人は常陸の国の岩間の山にも住むことがあるというのを聞いて、それを質問しようという為でした。

  そのお方が言うには、私の父は好井といいます。私は今年で三五才になりますが、二〇才ばかりの時に、父は隠居しました。

  催馬楽の其駒や伊勢の海、田中の井戸、席田などの秘曲を知ったのだが、私にも他人にも話すには、

  この秘曲どもは、若いとき鞍馬山に米叟上人という道徳のすぐれた僧がおりまして、偶然お会いし習ったのです。さて後で気づいたのですが、この様子は雲上の秘事であるものを、このようにして習ったが、その家々から咎められることがないのだろうか」と言えば、上人が聞いて、「もしとがめる人がいたならば、私に習ったのだと答えなさい。私に質問する人がいたならば、私は常陸の国の岩間の山で、異人に出会った時に習ったのだから、ありのままにそのように答えなさい」と言って、岩間の山の異人のことを様々話す中に、お供えのご飯が、異人の形は見えないのに、お供えしたご飯がなくなったときもあったと話しております。だから岩間山には、仙人が住んでおり、神代の楽事をも伝えているものと思われます。これが父の物語です。

 

このことが最近不審に思えて、寅吉という童子が仕えた山人は、岩間山にも住むことがあったと聞けば、もっと詳しく聞きたいと言うのです。

 そこで、篤胤が代わってその山のことなどを話聞かせてから、寅吉を呼びだして

「催馬楽という音楽を聞いたことがあるかどうか」と質問した。

寅吉は「そのような音曲の名前は知りません」と言うから、

其駒、席田の歌の文句を聞かせて「このような文句の音曲を聴いたことはないか」と聞けば

寅吉は「その文句の音曲は聴いたことがあります」と言うのを谷氏が聞いて、

「やっぱり米叟上人の説は本当のことであった」と喜んで帰っていきました。

 

  これより前、三月一三日寅吉は、今日は山では、毎年師匠の誕生日のお祭りをしておりますので、山の神楽の覚えているのを舞いますといって七八曲を舞いました。その日集まった人々は二十人ばかりいましたが、その中に舞の音曲に詳しい人々も四五人おりました。いずれも驚き、通常のものとは異なることを感じました。中にはこの舞の古風で雅なことを見れば、三番叟の舞などはくらべものにならないという人もありました。

 

 このことも、山人の神楽のことも、なお詳しく記すことになるだろうが、その説は長くなるのでここでは書きません。あれこれ思い合わせて仙境には様々な楽事が有ることを述べたいと思います。

                             二月一五日





「七生の舞」完結



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