■現代語訳:「古道大意」(2)
現代語訳「古道大意」・・・水戸光圀・賀茂真淵・本居宣長・・・
上巻 1-2
「古道学の系統」
まず第一に申しておかなければならないことは、私の学風を「古学」と言い。学ぶ道を「古道」と申すいわれは、古の儒仏の道がまだ日本に渡り来る以前の、純粋な「古のこころ」と「古のことば」をもって、天地の始めよりの事実を素直に説き考え。その事実の上に、真の道が備わっていることを明らかにする学問であるため、「古道学」と申すのです。
そもそもこの学風の由ってくるその始めは、東照大神君がその糸口を開かれ、公子尾張の源敬公、そのご意志をつがせられ、さて水戸の中納言光圀卿(みつくにきょう)が大いに勢いを盛んにされたのです。光圀卿とは、世に水戸の黄門様と申すお方です。この殿が世の中にただただ中国の学問ばかり行われて、我が国の古い御代のことなどは、心とする者がないことをお嘆きになり、第一には宮中を殊の外ご尊敬せられ、数多くの学者をお抱えになり、世の中のありとあらゆる古書をお集めなされ、また諸国の神社仏閣、および全国各地に数多くの人を派遣されて、いささか一枚二枚と足りないものまで、古い書物ならばことごとくお集めなされ、それを明細に御吟味されて、神武天皇(じんむてんのう)の御代より後小松天皇の御代まで、御代は百代、年数は二千年余りの間のことを、つぶさにお選びなされ、『大日本史』という歴史書をお造りなされました。又『神道集成』というのもお撰びなされました。又古書はもとより、殿上人の世々の御記録を始め、数百部の書物の中より、朝廷の御礼儀に関わることがらをお集めなされて、全部で五百巻余りの書とされたのです。
そもそもこの学風の由ってくるその始めは、東照大神君がその糸口を開かれ、公子尾張の源敬公、そのご意志をつがせられ、さて水戸の中納言光圀卿(みつくにきょう)が大いに勢いを盛んにされたのです。光圀卿とは、世に水戸の黄門様と申すお方です。この殿が世の中にただただ中国の学問ばかり行われて、我が国の古い御代のことなどは、心とする者がないことをお嘆きになり、第一には宮中を殊の外ご尊敬せられ、数多くの学者をお抱えになり、世の中のありとあらゆる古書をお集めなされ、また諸国の神社仏閣、および全国各地に数多くの人を派遣されて、いささか一枚二枚と足りないものまで、古い書物ならばことごとくお集めなされ、それを明細に御吟味されて、神武天皇(じんむてんのう)の御代より後小松天皇の御代まで、御代は百代、年数は二千年余りの間のことを、つぶさにお選びなされ、『大日本史』という歴史書をお造りなされました。又『神道集成』というのもお撰びなされました。又古書はもとより、殿上人の世々の御記録を始め、数百部の書物の中より、朝廷の御礼儀に関わることがらをお集めなされて、全部で五百巻余りの書とされたのです。
この大事業の資金として、御意石高三十五万石の内、十万石を分けておかれて、誠に数十年の御辛労をもってついに御成就なされました。これを朝廷に奉られたところ、朝廷でも御感慨斜めならず思い召して、その五百巻の御書物に『礼儀類典』という御題をお付け下されたのです。
また『万葉集』はことのほか古い歌集で、歌のみならず、博く古を考える助けとなるべき結構な書物ですが、その頃までにある注解は、いずれもよろしくないので、よく古に叶った注解つけるようにお頼みされたのです。契中は畏まって、ついに『万葉集代匠記(だいしょうき)』というものを撰んで差し上げました。私の万葉学はこれより始まったのです。光圀卿それをご覧なされたところ、今までのあらゆる注釈とは異なり、ことごとく古言古意を尋ねてこれを記し、はなはだ優れたものでしたから、大変にお喜びになり、白金千両、絹三千匹をくだされたのです。契中(けいちゅう)はその賜り物をしまっておかないで、ことごとく貧乏な者に与えられたということです。
また先の『代匠記』を作るとして、おびただしく古書を集め考えたとき、その余力をもって『古今集』へも解説を下して、これを『余材集(よざいしゅう)』と名づけたのです。これを以てその時分まであったところの注解とは雲泥の違いにして、誠に立派なものです。その契中は元禄十四年一月二十五日に年は六十三才で亡くなりました。その著した書物は全部で二十五部、巻数は百二十巻余りもあるのです。
この契中に追いすがって、荷田宿禰東麻呂翁(荷田春満 かだのあずまろ)、俗名を羽倉斎宮という人が出られて大きく国学をもり立て広められました。四方にその名が高まり、国学の学校を京都に建てようと、公の許可を受けて、その地を東山にしようとしましたが、その事を果たせず、病で亡くなられたのです。この翁、著述の書数が数十部、巻数は百巻余りあったということですが、思うことがあるとして、末期に多くを焼き捨てましたたので、今はわずかに残ったものが五、六部、数巻しか無くなりました。しかしながら、わが古道学の道筋を立てられたのはこの人です。
この次が賀茂の縣主真淵翁(賀茂真淵 かものまぶち)、通称岡部衛士という人が出られて、家の名を「縣居(あがたい)」とつけられたので「縣居の大人(あがたいのうし)」また「縣居の翁(あがたいのおきな)」などと申すのです。さてこの翁、荷田大人の門人となり、その志をついで勉学されました。その先祖はカミムスビノカミの御孫、カモタケズヌノミコトと申して八咫烏(やたがらす)となって神武天皇を導き奉られた神で、縣居の翁はこの神の子孫です。代々遠江の国浜松の荘、岡部の郷にあります。賀茂の新宮をついだ正しい家柄です。真淵の翁より五世の先祖の政定という人は、引馬原の戦で大功があって、東照宮より来国行が打った刀と、丸龍の具足を賜ったほどの人です。
さてこの真淵の翁は、その師東麻呂翁(あずまろおう)の上をなお一段上って、なお深く考え、始めて古の道を明らかに得ようとするには、中国思想、仏意を清く捨てなければ、真のところは得難く、歌を詠むも、古の言葉を解くにも、みな神代の道を知るべき方法であることを、懇切丁寧に諭されました。そしてついには田安の殿に召し出され、国学の師範となられたのです。その門人にも優れた人が多く藤原宇万□、楫取魚彦、また近頃まで生存した加藤千陰、村田晴海なども皆この翁の弟子です。そしてこの翁は明和六年十月に行年七十三才で亡くなられました。その著した書物が四十九部、巻数が百巻近くあるのです。
その次が、我々が師と仰ぐ本居先生の阿曾美宣長の翁(本居宣長 もとおりのりなが)です。始めは医者でありましたから、本居瞬庵と称しましたが、後に紀伊の国中納言に召し出されて、中衛と改めました。その先祖は桓武天皇の末裔、池大納言頼盛卿六代の後胤、本居縣判官平建郷というお方の末裔で、伊勢の国松阪の人で、屋号を鈴の屋とつけられたことから、世に「鈴の屋の大人(うし)」とも、「鈴の屋の翁(すずのやのおきな)」とも申します。 さてこの翁の学問の偉大なことは、その著された膨大な著書を読まれればよく分かることで、申すまでもないことですが、その始めは、中国の学問を深く学ばれて、それから国学に移り、縣居(あがたい)の大人(うし)に従ってその大志を受け継がれ、学問の道に於いて古より類なき大功をたてられました。
その趣旨のことをかいつまんで申せば、まずその著書『ウヒ山踏』という書の主旨は、「人として人の真の道はどういうことかということを知らずに居るべきではない。学問の志の無い者はどうにもしかたがありませんが、かりそめにもその志があるならば、同じくは真の道の為に力を用いるべきだ。然るに道のことをなおざりにしておいて、ただ末のことばかりにかかわっているというのは学問する者の本意ではない」と言われ、「又学問は始めよりその志を高く大きく立て、その奥の所まできわめめ尽くさないでは止むまいと、堅く思いこむがよろしい。この志が弱くては自ずから倦む、怠ることがでるものだ」とも言われました。この通り人にも教えられる程のことゆえに、自分では実にこの通りにされたのです。これも又その著書を読めばよく分かることです。
又その心の公にして私がないことは、弟子たちに戒めた言葉に「我に従ってものを学ぶ方々は、私の後に又よい考えが出来た折りには、必ず私の説に従わなくてもよい。私が言いおきたることにも間違ったことがあるならば、その違っている理由を述べ、よき考えを広めよ。一体私が人を教えるということは、道を明らかにしようとのことだから、とにもかくにも道を明らかにするのに我をつくすのだ。その訳を思わずにして、いたずらに私を尊ぶのは、それは私の本意ではない」と『玉勝閒(たまかつま)』という書に書いておられます。
又その心の公にして私がないことは、弟子たちに戒めた言葉に「我に従ってものを学ぶ方々は、私の後に又よい考えが出来た折りには、必ず私の説に従わなくてもよい。私が言いおきたることにも間違ったことがあるならば、その違っている理由を述べ、よき考えを広めよ。一体私が人を教えるということは、道を明らかにしようとのことだから、とにもかくにも道を明らかにするのに我をつくすのだ。その訳を思わずにして、いたずらに私を尊ぶのは、それは私の本意ではない」と『玉勝閒(たまかつま)』という書に書いておられます。
又村田橋彦という人が同国白子の人で、翁の門人になりたいといって、手紙をやりとりした翁の返書を所持していますが、その中で言われたことは、「皇朝の学問においては、秘事口伝などと申すことは露ほどもないのであって、そのようなことを言うのはみな邪道だ。多くの道を説き聞かせることが本意であって、門弟でなくても、外においても、秘密にしておくことはさらさらない。とはいうものの、皇朝の古道にご執心なことは、ご殊勝であり、なによりも悦ばしく存知申し上げる」と書き送られたこともあるのです。
既にその頃御歌の宗匠であられる日野一位資枝卿ですらご感心のあまりに、お孫の日野中宮権大進殿というお方を遣わされ、翁を師とお頼みなされました。そして入学された時のお歌が「和歌の浦に行くえをたどる海士(あま)の小舟 今日より君を梶とたのまん」と仰せられたのです。この意味を簡単に申せば、和歌の浦という浦に行方をたどっている海士の小舟に自分を見立てて大和歌の道をたどっている身の程ですから、今より貴方を師匠とお頼みしたのでございます。この他にも御尋ねたる御方々は、この心映えのお歌をお読みなされて、いずれも翁をさして、本居先生、鈴の屋の翁、又は鈴の屋の大人とお尊びあそばし、お頼みなされて、翁の講説をお聞きなされ、閑院の宮様、妙法院の宮様までも、翁を召されてお慕いあそばしました。実に千古の昔よりこのようなことはなかったのです。
ここに又おかしいことがあるのは、我が同門の者のところへ、俳諧をする者が来て、その者が庭に亀の子が来たとして大変に喜び、そのことを文章らしく書いて、持ってきて直して下さいと言いますから、それを書き直し、亀の子が「不意に来た」と書いてあったところを「ゆくりなく」と直してやったところ、その人が言うには、他はよいですけれど、この「ゆくりなく」という言葉があっては、今流行る五冊物のようで悪いですから、昔のよい言葉に直してもらいたいと言いましたので、これには同門の者もあきれたという話です。なんと戯作者どものしわざにしろ、その真の言葉が俗の言葉だと思うほどに、翁の徳は行き渡り、世にまたといない翁ですけれども、世の人は知りません。耳の悪い、所謂つんぼの者は雷が鳴ってもとんと聞こえない。盲人はいかなる面白いものも見えないようなもので、世に道を学ぶとか、学問するとかいう人々も、知らず知らずその徳を蒙っておられるのも、この翁がそれほどありがたい先生であることを知らないのです。
さて翁の著されたる書物が五十五部、巻数が百八十余巻あって、いずれもいずれも学問する者は常に傍らから離されぬもので、一部一冊として人の心を打たないものはありません。さてこの先生は享和元年9月に享年七十二才でお亡くなりになられました。
なおこれらのこととは別に、詳しく記したものがありますが、ここでは駆け足で話すために、概略のまた概略を申すのです。
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