■現代語訳:「古道大意」(6)



現代語訳「古道大意」・・・温故知新・日本の神と中国の神!!

上巻 2-3
  「学問は温故知新と活見」

  さて又先年に伊勢平蔵、平の貞丈先生という人がおりました。この人は天明の末当たりまで世におられた人で、有職古実の学問、又は武士道の学びに秀でられた先生で、世にこの家の学風を伊勢流と言われました。なぜならば足利の盛んな時分、殿中内外の古実を司られた伊勢守より、以来連綿として今もなお旗本衆で、その古実として伝来しておるために、伊勢流と申すのです。さてこの貞丈先生の申された言葉に、「書物を見るには、古の眼、今の眼ということを心得て読まなければならないものだ」。


 その古の眼と言うのは、古の書物を常に多く見なれて、古代の風儀をよく見知った眼を言うのです。また今の眼と申すのは、今の世の常時のならわしを見なれて、古代のならわしを一向に見知らない眼を言うのです。さて、古の眼をもって、今の世の趣を見れば、今のならわしが明らかに分かります。今の眼をもって、古代の事を見るときは、古代のことも、今のならわしの如く見なすために明らかにならず、疑わしいことばかりあって分からないものです。

 たとえば、古い書物に、「金百両とあるのは、練金というものを、目(はかりめ)で百両のことなのだが、今の眼をもって見れば、金の小判百両のように見えるのだ。また古い書に、八丈の絹とあるのは、尾張の国から出た物で、長さが八丈の絹なのですが、今の眼をもって見れば、八丈島より出る絹と同様に思ってしまう。このような類が、数え切れないほどに多いのだ」と言い残されたのです。
 これは学問の上ばかりでなく、今日の事業をしていくにも、本を知ったと知らないとでは、大きく思慮の違うことがあるのです。ことに学問と申すものは、何の上にも及ぼし、用に立ち、働きをつくるためのものであるから特別のものです。まず古きことを尋ね明らかにして、高い所に上って行って、それから下を見下ろす時は、今の世の低く新しいことは、さして骨をおらずに分かるものです。こうですから、孔子も「故き温ねて、新しきを知らば、以って師たるべし」とも言ったのです。
             
 今の世は己の身の上にも不思議なことは幾らもありますが、通常のことに馴れていますから、その身をも不思議とも思わず、たまたま神異なることでもありますと、多いに惑いを生じることが多いのです。ところが古の学問をする者は、古といえば、この上ない天地の初めから、奇妙で不思議で神妙なことといえば、この上もない天地をさへ始められた神々の御事実をよく明らめるために、この上の高いことはないのです。だから神代の神の御上を、今の眼をもって、今の凡人を引きずって疑うような、頑固な心は起こらないのです。                                               
 これを及ぼすときは、何のことにも行き渡ることで、とかく何の学問、何の事でも、ぐっと高い所をやっておくのがよろしいのです。たとえば本歌と言って真の歌を詠むものは、連歌は何の苦もなくできます。連歌をよくする人は発句が何の苦もなく出来ることを見ても、とかく人は高いことを覚えるのがよいのです。貞丈先生が言われたことは、「書物を読んで、その文の意味を説くにただ一方にばかり偏って、外に通じわたらなければ偏見と言って、片寄った書物の読み方だというものです。また文の意味を考えるに転用旁通といって、この事に当たっても、あちらの事に当たっても滞りのないのが活見と言って、眼を生かして書物を見ると言うものです。
 また偏見の片寄った見ようの人は、憤?という事を起こし発明するようなことはありません。活見と言って眼を生かして書物を見る者は、事を起こし、発明する憤?の勢いがある」と申されました。これは学問の上ばかりではない、諸事に行き渡ることで、今の世に漢学をする人々、また中国(唐)思想の狭い悪癖がついた人などは、多く今の眼をもって古を考えたり、彼を考えるのにこれをもって考えるというように、活見するの人も少ないのです。どうぞそうならないようにしたいものです。
  

  「神とは」

  さて、我が国の言葉に、すべて「カミ」と申すのは、古の心を尋ねれば、古の御典(おふみ)に見える、天地の諸々の神達を始めとして、それを奉られた社(やしろ)にまします御霊(みたま)を申します。また人は当然ですが、鳥獣草木の類、海山など、その他何でもあれ、尋常でない優れた徳があって、かしこみ恐るべき物を「カミ」と申すのが古のあり方です。その優れたというのは、尊いこと、善いこと、勇ましいことなどの、すぐれたことばかりを言うのではなく、悪いもの奇妙なものでも、世の中で特殊で畏きものを神と申すのです。
 さて人の中の神は、先ずカケマクモカシコキ天皇(すめらみこと)の代々、みな神におわすことは申すまでもないことで、それは『万葉集』を初めとして、古くより歌にも、遠ツ神とも称して、凡人とは遥かに隔たり、尊くカシコくおわすますためでございます。このようにして次々と神となる人、古も今も有りますことで、また天下の下に広く流通したことでなくとも、一国一郡一村一家の内にも、ほど程に神なる人はいるのです。

   さて神代の神たちも多くはその代の人で、その代の人は皆神々(こうごう)しくあったがために 神代と申します。また人でなく物では、雷は常に鳴る神と言いますので、本より神であることには異論がありません。また龍、天狗、狐などの類も特殊で不思議で畏れ多いものであるために、これも神です。また虎や狼も神と申したことは、『日本書紀』や『万葉集』等に見えます。イザナギノカミ 桃子にオオカムヅミノミコトという名を賜り、またお首の玉をミクラタナノカミと申されたなどのこともあります。また神代記や俗に中臣祓(なかとものはらい)と伝えられている大祓の詞にもあるとおり、磐根(いわね)、木の根、草の根などが神代にものを言ったことがあります。これも神です。                       
 また海山などを神と言うことも多いのです。それはその御霊(みたま)の神を言うのではありません。直にその海をも、山をも指して神と申したもので、これらも山は高くそびえ、海は深く渡るにも越すにも大変に畏(かしこ)きものであるがために神と申したのです。そもそも神と申す古の心を尋ねますと、このような種々様々で、貴いのもあるが賎しいものもあり、強いものもあるが弱いものもあり、善いこともあるが悪いこともあります。心も行いもそのさまざまに従ってとりどりです。その貧しく賎しい中にも段階があって、最も賎(いや)しい神の中には、徳が少なくて、凡人にさえ負けるものさえおります。それはあの狐などは怪しいことをなすことは、いかに賢く巧みな人といえども、及ぶべきもなく、実に神です。
 しかしながらまた常に犬などにさえ制せられる賎しい獣です。そのような類の一向にしい神の上をのみ思い比べて、いかなる神といえども、道理をもって向かえば恐れることはない思う人も世の中には多いのですが、これらは尊いことと、賎しいこと、その威力に大きな違いがあることをわきまえていない間違いです。

   さてこのようなわけですから、神と申すものは、とんと一様に定めては申しがたいものです。そうであるから世の人は神様を、外国のいわゆる菩薩、聖人などと同類のもののように心得て、その理論で神を推し量ろうとするのははなはだしい間違いです。悪く、な神は何事も道理と違った所業のみが多いのです。また善い神だと申しても、事に当たって、正しい道理でなければ、程度によっては、お怒りなさるときは、御荒(すさ)びなさることもあります。それは宗神天皇の時代に三輪の大物主神(おおものぬしのかみ)の疫病を御払いなされたことなどを思いだしていただきたいのです。悪い神でさえ喜んで御心をなごました時は、幸(さきわ)いを御恵み下さることが、もう絶えて無くなったというのでもありません。
 また人の上にとっては、その所業がそのときは悪く思われることも、本当は善いこともあります。善いと思われることも、本当は悪いことであることもあるのです。すべて人の智には限りがあって、真実のことは知り得ないことであって、とにかく神の御上はみだりに推し量って言うべきものではないのです。ましてや善いも悪いも。特に尊く優れた神々の御上に至っては、いとも不思議で奇々妙々におわすますために、さらに人の小さい知恵でもってその真実は千重(ちえ)の内の一重(ひとえ)も測り知ることは出来ないのです。ただその尊さを尊び、かしこきをかしこみ、恐るべきを恐れるべきです。
 


   「日本のカミ・中国の神」

 さて我が国の古、カミというのは、右のような意味であるのを、はるか後の時代に、中国(唐)の文字が渡ってきて、その「カミ」という言葉へ「神」の字を当てたものです。これはよく当たっていると申しますが、七八分は当たり、二三分は当たっていません。それには訳があります。それはまず、我が国で「カミ」と言うのは、必ずその実物をさしてのみ言うのであって、紛らわしいことはないのです。しかしながら中国(唐)で「神」の字の使い方は、実物の神を指して言うばかりではなく、ただそのものを誉めて不思議というような意味にも用います。たとえば神剣(しんけん)というときは不思議な剣ということ、神亀(じんき)といえば不思議な亀ということになるのです。我が国で神と言うときは、必ず実物を指して言いますから、ここに違いがあるのです。                                               
 ただし また一つ我が国の言葉に「神何」と神の字を上につけて言うことがあります。それは神ワザ、神ハカリ、神イザナギノカミなどの類であります。いずれにしても誉めて言う、いわゆる尊称です。もっともこれは「カミ」と言わないで「カム」と読むのです。一体我が国は言葉の国で、元は神字の「カナ」のみあって、中国(唐)の漢字のような道理のある字はなく、言葉のみを旨として伝えてきたところへ、漢字が渡って来て、その漢字を我が国の言葉へ当てたものですから、道理の分かりやすいのも出来ましたが、折り合いがつかない言葉も多くあります。それは段段とお聞きになるうちに、追々とご理解がいくことです。しかしながら世の常の学者等が、このような訳も知らないで、漢字の道理にばかりしがみつき、それに馴れてしまっています。私が真実を説けば、誤りがあることもおびただしいのです。
                                                               

    

    上巻 3-1に続く



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