■現代語訳:「古道大意」(10)
完全現代語訳:古道大意・・・世界の地理、日本の位置づけ!!
下 巻 4-1
さてこのとおり神の子孫、神のご本国ですから、日本は万とある外国とは天地の隔たりがあって、何もかも不足なことはなく、満足でうるわしいのです。第一に、命をつなぐ米穀が世界で一番きわだってすぐれており、このきわだった風土水土の国に生まれて、見事な五穀を、トヨウケヒメノミコトすなわち伊勢の外宮の神様の厚いお徳によって、飽きるほど食べているために、我が国に生まれた人は持って生まれたものと合わせ、外国の人とは同じ年とも思われないほど、雄々しく聡明さが優れているのです。
ただしこのように、古伝説の事跡をもって解明し、誠のことを話しても、外国の勉強で惑わされている人や又生半可な知識人は、「平田は何もかも我が国がよいと言うが、それはひいきの引き倒しではありませんか」などと言う人もありましょうが、そのような人には日本の真実をもって聞かせても、なおかれこれと言うものです。そのような人には天文地理及び外国の説でもって、日本が万国に優れているということは、この天地の間の公論であることを示そうと思うのです。
さてこの霊(あやし)く、奇々妙々なる天地の始まりのありさま、また天地と別れた、おおかたの様子は、前の二回で、神代の古伝説に基づいて、概略を講説したとおりです。一体この大地は前回のお話のように、その初めは浮き雲のようで、その形状は言い難いもので、大虚空(おおぞら)の中に漂って寄りかかるところはなく、例えば一つのマリをつき上げたようにして、何とも不思議で、奇々妙々なことです。これによって思うには、あの天の浮橋を天地の間に浮かべ、自由に飛来したなどとは、更に疑わしいことではなく、これらのことを思い合わせて真理を知っていただきたいものです。
「大地球の天文地理」
そもそも天は動かず、地球が動き太陽を巡るということは、外国の説を借りる必要もなく、元から我が国の古伝でも明らかなことですが、天文地理のことについては西洋人が考えた説が一番詳しく、誰が聞いても分かりやすいものですから、今はその説によって申し上げます。
さて、その地球の形はまん丸な物です。近ごろ占い師などが持っているものに、マリのように丸くして、そこに国々を貼り付けて、その外に種々の輪を回したものがあります。あれは渾天儀(こんてんぎ)というもので、あの丸くして国を貼り付けたのがこの地球の形で、丸い物であるから地球と名づけたもので、地球の球の字はマリという字です。さて、その大地球の周囲は海と陸地とで出来ております。身近なことで話せば、その窪みの所には水がたまって海と川になり、また高い所は陸地で、中に飛び抜けて高いのが山と思えば間違いがありません。ことわざに六海三山一平地と言って、この大地の周囲が六分ほどで海、三分は山、一分は平地だということです。又あるいは海と陸地とは半々だという説もあります。
その大地球にある陸地を五つに分けて、第一をアジア、第二をヨーロッパ、第三をアフリカ、第四を南アメリカ、第五を北アメリカと言います。これを五つの大陸といい、また五大州とも申します。我が国、中国、タタール、インドなどはこの第一のアジア大陸の一部で、我が国からタタール、インドなどを合わせたほどの大陸がまだ四つもあるということです。その五大陸を合わせたよりも、まだまだ海となっている所は多いから、なんとめっぽう大きいものではないでしょうか。それほどに大きな物がこの大空の中に浮き漂っていて、落ちることなく、上がりもせずにいることをどうして考え知ったのでしょう。それは、前に言ったヨーロッパの人々は自由自在にこの大地球の周囲を船で乗り回し、国という国に行っていない所はありません。
そのヨーロッパの中でも、小国ながらオランダという国は、世界中を自由自在に航海するには、天文地理に詳しくなくてはならないことですから、これを第一の学問としたものです。その上にたいへんに気長にものを考える国民性で、底の底までものを考えます。その考えるためにと、いろいろの測量の道具を作りました。たとえば日月星のありさまを見ようと望遠鏡や遮日鏡(ぞんがらす)をつくりました。又その大きさ遠さ近さを知ろうとして測量の道具を考え出しました。考え出すにも五年十年、もしくは一生もかけ、一代で考えは果たせないことには、自分の考えついた所までは書き残し、その後を子孫や弟子の者が、何代も何代もかけて考えるのです。その器械を用いて道理のあることやないことを考えつけようにとするのです。
しかしながらすぐれた国で、唐などように推量の上すべりなことは言いません。そのために、どう考えても知ることができないことは、これは人間としては知ることができないことです。造物主(ゴット)という天ッ神のお仕業でなくては推し量ることはできないことだ。とおし推量なことは言わないのです。その通りにして千年二千年の間に数百人の人々が考えに考えて、煎じ詰めた説が、書物となって日本にも献上されて有るために、それを見て今このように話しているのです。
「外国から見た我が国の真実」
さて、その遙か西の国より渡り来た書物の中で、「ベンケルイヒンギハンヤッパン」という書がある。これを私の言葉に直してみると「日本の志」ということになります。これはエンゲルベルベルトケンペルという者が書いた書物で、この人は万国の事を詳しく知ろうとして、どこの国と言うことなく渡り歩き、我が国のことも調査するために、オランダ船のカピタンという役人となって、正徳年代に我が国にも来て、京も江戸も見ています。あの『万国風土記』を作って万国に名を知られ、後世にそれで名を揚げようと思う心から成し遂げたものですから、それはそれは精密なものです。これは外国の中でも大変に遠い国ですから、何も我が国に限って贔屓(ひいき)するはずもなく、何ということはなく万国を歩いて見たところが、世界の中で日本ほどすばらしい国はなかったから、そのことをありのままに記したと見えるのです。我が翁は「天地ノソキヘノキワミマギヌトモ、御国ニマシテヨキ国アラメヤ」と詠まれましたが、実にそれにまちがいがないことがその書物でよく分かるのです。
「日本の地理の恵み」
その書の概要をかいつまんでお話しすれば、まず我が国を非難する人のように言えば、「日本人がしっかりと錠でもおろしたように、諸々の外国と通商を行わず、日本人を外国に出さない。又外国から、どうか交易をしたいと言って願っても、取り上げないとはどういうことか。一体この地球に住んでいる人は、皆心安く交わりをするべきことなのです。これは造物主と言って、天地を始め人間及び万物をお造りされる、天ッ神の御心なのです。それなのに日本人が万国の人と交わらないというのは、それはわがままなことで、天ッ神の思し召しとは違うというものです。ガンやツバメでさえ外国へ行ったり来たりするではありませんか。それは人としてガンやツバメにも劣っている所業ですが、どうですか」と一つ難問を出して、これに言い開きしたものです。
これを自問自答の文法と申しまして、まず自分でわざと難問の言葉を起こして、又自分でその訳を答えるのです。さてその書の答え方は、なるほどそれは一通りもっともなような言い方ですが、そうでもないのです。日本が外国と交わらない訳を、私が付け加えて、詳しく答えるのでとっくりとお聞き下さい。
「そんな国はこの地球の内を探してもどこにあると思いますか、それは世界万国に知られた日本であるのです」
又その国に人が多いことは、言葉では言い表せないほどで、海辺を見れば人民がおびただしく、大小諸々の舟が繁多です。これは国中の人がことごとく海辺に居住して、陸地の方はさらに人が少なく、空虚だろうと思うようですが、さして大きくない国で、このように膨大な人がいるというのは、これはとんでもない理屈外というものです。又城郭住居が連なってひと続きのようになっています。もっとも何村々々と言うように、その所に名前は有りますけれども、これは昔は別々であったためのことである。今は一連になっていて、ただその昔の名前を失わないだけのことで、実は住居はひと続きだと言っております。これは実にそうであって、外国に行った人の話や、外国の書物を見れば、ただやたらと広いばかりで空き地が多く、それだから不便なことばかりです。又外国は大きい割には、中国をはじめ、人が大変に少ないのです。
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