■現代語訳:「古道大意」(8)
完全現代語訳・「古道大意」・・・ニニギノミコトと三種の神器登場!!
下巻 3-2
「皇孫ニニギノミコト」
さてまずこのように、オオナムジノカミは御鎮まりなされましたので、天照大御神、タカミムスビの神の御心として、いよいよ皇孫ニニギノミコトを、この国に御下しなされるに当たって、天照大御神はお手にいわゆる「三種の神器」、すなわち草薙の御剣(くさなぎのおつるぎ)、八尺瓊の曲玉(やさかにのまがたま)、それに伊勢の五十鈴の宮(いすずのみや)に天照大御神の御霊代(みたましろ)と斎(いつき)き奉る御鏡を御捧げあそばして、ニニギノミコトに仰せられました。
さてその天降りなされた所が、日向(ひゅうが)の国高千穂峰(たかちほのみね)で、この時第一にお出迎えなされたこの国の神がサザビコノオオカミです。このお下りなされた時、空が暗くて物の色も分からなかったといわれます。そこで稲穂を籾となされて、四方へお投げ散らされたところで、空も晴れたと言います。そこでこの山のことを今は霧山とも霧島山とも言って、西の嶺は大隅の国ソオノ郡、東の嶺は日向の国諸縣(もろがた)郡で、この山は不思議な事柄が多く、その中でも、今も神代のいわれによって、天然の稲が生えると言われています。また時として霧の深く立つことがあると言うのです。ところで神代の事跡と言って、いわゆる先達の者が人に教えるには、手に稲穂を持って登り、もしこの霧が起こったときには、それで祓いながら登れば暫くすれば空は晴れて、事故もなく登ることが出来ると言われています。
「天の浮橋」
さてこの天降(あまくだ)りの時に、お乗りなされたという、「天の浮橋(あめのうきはし)」というのは、天と地との間を行き来する物で、空に浮かぶ物であるから浮橋というのです。この世の物では、船と同様の物ですから「天の磐船(いわふね)」とも言います。初めイザナギ・イザナミの神が「天の浮橋」に御立ちなされて、沼矛(ぬほこ)でもって、国をお探りなされたと言われるのも同じ物です。この「浮橋」に乗るには高いところから乗り込むものとみえて、今国内のあちこちにある梯立(はしだち)というのは、そのために神がお造りなされた遺跡と思われます。それはまず播磨の国の風土記に、賀古の郡盆気の里という所にこの梯立(はしだち)のことがあります。又丹後の国の風土記にも、与謝郡速石の里(はやいしのさと)と言うところの海に橋立というものがあります。是は大変に大きなもので、長さが二千二百二十九丈、幅が九丈十丈、最も広い所は二十丈位もあると書いてあります。これは今の人もよく知っていて、見に行く人もたくさんおります。篤胤が知っている人にも見てきた人が数人有って、みんな恐れ入って、とかく強弁したがる人もガックリなのです。
そもそもこの「浮橋」での往来は、イザナギ・イザナミの二柱の神が、大空を乗るために御造りなされたのが始めであって、この後は、他の神々の御往来にも必ず使われました。最もその中でも天照大御神を天に御送り上げなさる時は、「天の御柱」を以て御上げなされたとありますので、これは別物である上に、この頃までは「天地の相去ることが遠からず」ともあって、近くて容易に聞こえます。
しかし、今ニニギノミコトの浮橋に乗って天降りなされる様子は、八重棚雲を「稜威(いず)の道別(ちわき)に道別(ちわき)」などがあって、以前よりは、ことのほかに遠いように聞こえるのです。さてこの天降りなされて後、ますます天日は上に相遠ざかるために、この浮橋の往来も止み、その梯立どもも、ついには地に倒れ伏したのが、則ち今、播磨や丹後にあるのだと言うことです。
「日・地・月の成就」
このようにして天日(あまつひ)は上に上って、大虚空(おおぞら)の真ん中にきちんと位を定めて、外へは動くことなく、一つの所に在って、右めぐりにクルクルとめぐっている。これが天日のありさまです。さてまた大地は、その天日を中心として、それより遙かに遠い大空を、右めぐりに漂って行き、大めぐりに一周するのが一年です。ただしこの大めぐりの間に、自己のめぐりがあって、天日に向かう時は昼となり、背向く時は夜となるのです。この一めぐりを一日というのです。このようにめぐること三百六十余転する間に、大空を行き、天日を大めぐりして、また元の所に帰る。これを一年と言います。さてまた夜見の国(よものくに)もこの時きり離れて月として見え、大地の外を周行して、満ち欠けをなして、二十九日半余りかけて元の所に帰ります。これを一月と言います。これがすなわち、天日、大地、月夜見(つきよみ)が今のように成り整ったことの大略です。
このことを身近なことで例えれば、服部中庸(はっとりちゅうよう)が申したとおり、稚児(ちご)の臍の緒と袍衣(えな)とが繋がっているように、また草木の実が熟すれば、果実のヘタから落ちるようなもので、これただにその有様が似ているばかりではなく、その道理までが全く同じ事です。なぜかと申せば、ニニギノミコトの天より御降りなされたのは、稚児が生まれ出たようなものです。またイザナギ・イザナミ二柱の大神のお生まれなされて、日の神をお生まれなされた、この我が国の君のお定まりあそばして、天降りなされて、お治め遊ばすのは、天地国土のことが完全に成就したものであり、これは草木の実がなって熟したのと全く同じ道理です。
「我が国の有り所と外国」
またその始め「一つの物」より、天と萌え上がった頃は、まさしく天と上下相反する所が我が国であるめに、すなわち我が国の有り所は、この大地の頂上であることが分かるのです。
また諸々の外国の初めについては古伝説に、「所々の小島は、皆これ潮の泡(しおのあ)の凝り固まったものである」とあることから考えるに、イザナギ・イザナミの二柱の神が大八島(おおやしま)の国をお生みなされて、国土と海水とが段々と分かれるに従って、ここかしこと、潮の泡が自ずから凝り固まって、泥土(ひじりこ)がより集まって、大きくも小さくも国となったもので、我が国に比べては、遙かに後れて出来たのであることをも知っていただきたいのです。
これもみな、ミムスビの神の、ムスビのお徳によって出来たことには、変わりはありませんけれども、外国は二柱の神がお生みなされたのではありません。また日の神のご本国でないのですから、我が国とは初めより尊卑美悪の差別も、ここでよく分かるのです。これを思うにも、我が国はこれ天地の根帯(もと)で、諸々の事物がことごとく万国に優れている理由も、また諸々の外国の、何もかもが我が国に劣っていることも、考え知っておくのがよろしいのです。
またこのようなわけですから、諸々の外国にたまたま残っている古伝説も、我が国のように詳しくは伝わらないはずです。これは例えば京に有ったことを、国々の田舎に語り伝えたようなもので、元の京ほどに確かでないことももっともなことです。
また我が国の古伝説の片端を訛(なま)って言い伝えて、その国のことのように申しているのは、これも都に有ったことを遠い田舎で聞き伝えて、年数が経るに従って、元を失ってしまって、そこにあったことのように、語り伝えたようなものです。とっくりとこのあたりの訳を考えて、我が国の天子さまは、実に万国を治めるべき、真の天子としておられることは明らかで尊いことと申し奉るも、なかなか世の常のことではないのです。
「日本が優れているわけ」
しかしながら、世の学者達が、ひたすら外国の説にのみ惑い溺れて、我が国のこのように尊いことを知らず、たまたまこのような真実の説を聞いても、信じることもせず、却って論破しようとさえ致すのは、返す返すも心得違いなことです。また世間の外国びいきの学者どものよく言うことには、我が国は小国で、また国の開かれたのも遅かったなどとよく申しますが、まず我が国を小国小国と言って、卑下しようとしますけれども、国土ばかりでなく、すべての物の尊いと卑しい、良いと悪いとは、形の大小によるものではないのです。数丈の大石も小さな玉に及ばず。また牛馬象などの獣は、大きいけれども人には及びません。どんなに広大な国だと申しても、下国は下国、狭く小さいけれども上国は上国です。
最近世界地図というものを見ましたが、ロシア、アメリカなどという大変に大きな国が数々有って、中には草木も生えず、人間も住んでいない所がありますが、それでもこれを上国と言うのか。それまでもなく、近くは我が国の中でさえ、上中下と分けてありますけれども、それは国の大小をもって、お定めなされたのではなく、国の産物一体の風土をもって、上国下国の差別が立ったものです。また我が国が開かれたのが遅かったと言うのは、知恵がつくのが遅かったと言って誹(そし)るのは、実は思慮が至らないからです。
これは例えば総見院の右大臣織田信長公などは二十歳を過ぎるまでは一向におだやかで拙(つたな)くて、人はみな馬鹿殿と申したということです。また大石内蔵助良雄なども、世の中に美名を伝えた程の人ですが、この方も二十歳ばかりまでも、人は馬鹿だと申したとのことです。このような類は昔の器量人にはしたたかに有るのです。
また鳥獣などは生まれてすぐに、米や虫を拾って食ったり、また生まれてようよう二月三月も経つやいな、雌雄交合を為したりなどするのも、みな卑しいものだからです。それから見れば人ははなはだしく何もかもだらしのないことです。しかしこれが直(じき)に、人が鳥獣よりは尊いところで、外国が速く悪賢くなったのも、我が国が長らく神代の有様で悪賢くなかったのも、これに習って考えるがよいのです。
中国(唐)の『老子』という書にも「大器は晩成」と言っております。この意味は先に申した大量大智の人や、または鳥獣に比べては知恵がつくのが遅いようなことを申したもので、これは中国(唐)の人ながらよく言い当てたものです。
しかし段々と講説を進めて聞かれた上で、かれこれ思い合わせて悟ることが出来たなら、その時は篤胤がクドクド言うぐらいではなく、筆で書こうとすれども、中国(唐)の人が申したように、「書は言葉を尽くさず」とか言うように書ききれないのです。しからば口で言おうとしても、かの「言葉は意を尽くさず」とか言うように、口に余って語りきれないのです。そこで「手踊り、足の踏むことを知らず」とも言うように、小躍りする程、ここちよいことのあるもので、篤胤の講説ぐらいは、居眠りしながらでも言えることです。
ただし何によらず、外国でつくられた事物が、我が国に渡ってくるとそれをチラッと見て、その上を遙かに立ち超えて、その事物が出来ることも、我が国の人の優れたところです。それはこの篤胤がやっても外国人よりはきっと良く出来ます。これが我が国の風土の自然で、自然と申すのは神の御国だからです。これらについても、細やかに考えた事もありますが、それは「医道の講説」の時お話しするつもりです。
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